競歩50kmと同  早川殿 父氏康怒る   薩埵峠の富士

日々テレビに釘付けでリオの超人たちの「刹那の爆発」を楽しく拝見させていただいております。

たくさんの「爆発」のある中、素人のあさましさでつい「真似事ならできそう」と思うのが競歩ですね。

独特なカタチながら「歩く」という競技ですから。

 

ただしその「歩く」競技と口では言ってもあの「独特」を維持して長距離(50㎞)を行く姿を現実に目の当たりにして「こりゃあキツイ」と思うのであります。

 

今夏私も、暇を見つけてはお日様の下を5~6回は歩きましたが、私の歩く距離はせいぜい10㎞です。それであっても「もう十分・・・」のキツさがあります。

それをあのスピードで50kmを走るというのですから普通ではありませんね。

道理でコンディションを崩して故障したり周回遅れとなる選手が続出するワケです。

一見して楽だろうと思うのは浅はか以外の何物でもありませんね。選手たちのトレーニングと忍耐を重ねた姿が推測されます。

 

さて、50㎞を歩くとはどれだけの距離だろうと思う方に上記一番最後の地図を用意しました。だいたい静岡と掛川の距離です。グーグル地図によれば48.1㎞となっています。

徒歩ですと「小夜の中山」という昔でいえば箱根に次ぐと言われる難所がありますので直線の50㎞とは疲労度は違うでしょう。

 

しかし今、静岡―掛川間を歩く人はさすがに見当たらないでしょうね。もしそちらを徒歩で行くとすれば先日記したようなレジャー主体の「贅沢三昧」の方か「命がけ」の2つに1つということになりましょう。

ということで後者(命がけ)の人で静岡から掛川を徒歩で歩いた人を歴史上の人であげればそれは何といっても「早川殿」ですね。

 

早川殿は駿府館で夫の氏真を見送ったあとのしばらくしての状況急変に大慌てで掛川城までその50㎞を歩いて逃げ込むことになりました。

大名の奥方は通常輿に担がれて道中を行くというのが当たり前の世界。勿論氏真のそれすら用意する余裕が無いほどの大慌て振りが見て取れますが、婿殿の醜態と娘への無配慮を聞いた父親の北条氏康は地団太を踏んだと言われています。

 

永禄十一年の暮れの、武田信玄の駿府侵攻は今川氏真には寝耳に水だったでしょう。

義元なき駿遠は8年が経過、氏真の知らないところ(家康と信玄の密約)ではすでにちゃっかりと「大井川を国境にしよう」と言う話でまとまっていたのです。すでに正月の準備でのんびりした駿府家中が想像できますね。

 

そこへ来て信玄軍が富士川沿いに下って駿河に入ったという報せを聞いて氏真が思考したのは薩埵峠(場所はここ)で迎撃しようという作戦です。

 

薩埵峠は今でこそ国道1号のバイパスや東名高速道路のおかげで通行する人はまばらですが、往古より箱根や小夜の中山に匹敵するほどの東海道の難所でした。

何せ「山即海岸」の場所で海側に人が通る道などは無かったのです。

現在の海岸線は安政大地震の隆起によって後退しているそうです。

 

実際に走れば「林道」以外の何物でもありません。

特に由比側ともなれば、殆どの場所は交互通行不可で慎重な走りが必要になります。

県外車もガンガン上がってきますのでこちらが下りの場合は相当神経を使うことになります。

 

そのような道ですから信玄軍があがって来たとしても適切に対応できれば、今川軍としては守りやすい好立地ではあります。

しかし信玄は駿河侵入の前に調略の手は差し向けていたようで、今川氏真は配下裏切りと疑心暗鬼の中、前衛ベースに入っていた清見寺から早々と撤収してしまいます。

 

大将逃亡の報は瞬く間に配下戦意を喪失させて、今川軍は潰滅。

氏真の迎撃態勢を駿府賎機山まで後退させようという目論見は、今川軍を挟撃すべくいち早く駿府になだれ込んだ先鋒の馬場信春に賎機山を奪われるという後手後手の不手際を露呈させて万事休す。

これが「大慌てで妻を50㎞を歩かせたてしまう」という後世に残る大恥をかいてしまったわけです。

妻は大事にしないとずっと他所から笑われることになります。コレ歴史の必然。肝に銘じます。

 

通行量は少ないといえども、こちらは富士山の景色では特筆的に有名な場所で放送局の定点カメラが設置されてもいます。

特にまた歌川広重、東海道五十三次の「由比」でもその絵との比較をしようと訪れる人がまずまずありますね。

 

私はことのついでの遠回りで例の広重の景色(画像⑦)を見ようと寄ったのですがこの日はたまたま雲に隠れてしまっていました(画像⑤)。⑥は定点カメラのその日の朝の画像をコピーしたものです。定点カメラの図は常時配信されていますので各自どうぞ。また近くを通過したときにチャレンジしにいきます。

冬の晴天が確率高いでしょうね。

 

由比側の降りた辺り(最後から2番目の画像が由比側上り口)には明治天皇や山岡鉄舟ゆかりの宿などもあって古い(本来の)街道が「本当にここだったのだ」と確信させられるのです。

尚、室町初期の足利尊氏が興津側から、足利直義が由比側からぶつかった兄弟による合戦が行われた場所でもあります。