刹那弾ける姿  頼もしい 太秦近く 名もなき墓石

スポーツ選手の試合終了後のインタビュー返答、冒頭の「そうですね・・・」は「耳にタコ」となりつつある昨今ですが、連日のリオ五輪の、誰かしら各インタビューでも日々同様です。

 

どうでもイイことですが最近は「今日も言ってくれるかな・・・」などと期待しながら待っている私がいます。

まず期待を裏切らずそのお決まりの言葉を毎日のように聞かせていただいて、勝手にニヤけていますが、稀に試合にボロ負けした選手など「いきなりの反省の弁」が先頭に吐かれますので、そのような時はこちらも拍子抜けしたりしています。

 

刹那に全精神と体力を爆発させるというスポーツは勝者敗者を分かつといえども個々の訓練によって磨きあげた技量の発現は見るに楽しくまた、わくわく感一層盛り上がります。

そしてつくづく思いますが、これらは特に若い人に繋げていただければいいことだと。

 

オリンピックの選考は各種目「刹那の爆発」への評価ではありますが、時間はどんどん経過していきますので、スタンスとしてはより将来を見据えての「禅譲」が必要だと思います。

 

将来を担ってもらう若い世代のアスリートを仕立てていくには、過去の栄光にすがって「今の実力者」がいつまでも現役にこだわらず、早々に勇退されることだと思います。

その辺りあの100mのボルトが「今年で御終い」(引退)を宣言するなど「さすが」と唸りました。

 

スポンサーや周囲は「まだまだやれる(一緒に稼げる)」とそれを制そうという動きになるでしょうが、日本ですとそこの「若い者を育てる」という感覚が尚、起こりにくくいつまでもこだわり続けてまた周囲、御近所もその選手の背中を押すという状況が散見され、それを選手は信じ込んでしまい適切な判断を見誤るという傾向にあるようです。

 

スポーツ世界のこと、何らの理解もない私のいつもの暴言と思って聞き流していただければと思いますが、ことスポーツアスリートに限っては「15~25歳に限定」して選出するのがいいのかと思います。

その間に芽がでなければ御終いにしなくてはなりませんし国内実力者としてあったとしてもタイミング次第では勇退すべきです。

 

バトミントンの世界ではそれがうまいこと進んでいたようですね。凄い躍進ぶりです。見ていて頼もしく感じます。

ということで先輩たちの指導で大切になるのが欠落しがちになる彼らの「態」と「言葉つかい」だと思います。

 

「命がけで戦っている」ので雄たけびもガッツポーズも出てくるのは当たり前だとはいいますが、もう少しだけ謙虚さというもの、対戦相手への配慮があってもいいのかな・・・というのが昨今の私のイメージです。

 

まぁ、堅苦しく表せば仏法の共存平等性とスポーツの「傲慢性の発露」は相合わないといえばそうなのですが・・・

 

「精神論」は嫌われますがやはりメンタルの部分の鍛錬は必要でしょう。「今」は「今」でもメディテーションは「今の私の心の中を俯瞰すること」です。

選手の皆さんには練習の合間にメディテーショントレーニングを取り入れていただければ体に加えて心も鍛錬できると思います。

 

さて、昨日の太秦広隆寺の正面三条通にぶつかるちょっと手前、無銘なれど歴史感あふれる墓地の前を通りかかりました。

 

球技などに不可欠な能力として「動体視力」があげられますが、こと「墓」に関してもそれは通じるものがあるのです。

墓石は「俊敏に」動いたりしませんが、当方は何せ自動車での移動中ですからその中で、インプットされた「五輪タイプの残影」に反応します。

 

この自称「私の特異能力」は「奥の墓道氏」も承認済み。

彼が助手席に座っていて気づかなくとも、道路左側の墓石を瞬時に見抜きます。

これは役にも立たぬことで決して人さまに自慢できることではありませんし、羨ましがられることでも何ともないことではありますが・・・。

ということで、私は道路通行中、あきらかに「古そう・・・」と見込んだ墓があればまずは確認に行きます。

 

太秦交差点に向かう幹線道路脇、住宅と商店が連なる墓地ですが、酷く荒れ果てている墓域にポツポツと立つ五輪塔が・・・(場所はここ)。「朱雀墳墓地」(太秦朱雀町という地名)という名称がありますが何カ寺かの地元寺院による管理のようです。

 

そちらには小さな祠があるばかりで、その裏側ときたらゴミ捨て場の如し。いわゆる荒廃墓域ですね。

 

時代の変遷により今はこのような姿になっていますが、かつてはたくさんの墓が建っていたことがうかがわれます。

また古い墓が建てられた頃、この辺りには家などは無かったのではないでしょうか。

一見したところのあの一石五輪塔の製作年度を推すに「室町時代」まで遡るのではないかと。

故人たちも数百年前のある時の刹那を思いっきり「生きた」ことは確かで私たちもその後を追ってこの刹那を生かされているということ、これも同様です。

 

墓地移転も進んでいるようですが、墓地は権利が複雑で、現状使用者もまだおられるよう。使用者が居て移転を拒絶されれば致し方ないことでしょうし場合によってはその進展には大きな譲歩(移転料)が必要になるかも知れません。

かつこの土地を有効利用しようにも永年地元ではあの様子が目に焼き付いていることでしょうから、「さすがに・・・」という気持ちになって、それは不可能に近いことでしょうね。

 

一旦墓地になった場合、よほどのことが無い限り、それを更地に戻して用地変更することはできません。

どこかでも記しましたが、東名高速道路等、直線道路がカーブするところといえば墓地があるところでした。

「墓地があるから事故がある」のは類推解釈が過ぎるだけで、カーブがあるから事故が多いということですね。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 18 8月 2016 11:39)

    先日榛原の門徒さんが仏壇の小さなものを買った。(お寺で紹介されたところで買ったそうです。)
    新仏だけどお墓はどうしようかと迷っていました。たぶん作らないでしょう。
    父親、母親、娘一人で暮らしていて父親が亡くなりもうすぐ一年だそうです。
    娘は独身、すでに50歳に近くお墓を建てても後の面倒を見る人はいない。
    だから仏壇も小さなものにしたそうです。お墓もどうしようか、です。
    人どころではない、私の所もどうしようか。
    子供は独身、近くにはいない。家、土地はどうしようか。お墓もどうなることか。
    考えたことはないけど考えなくてはならないのでしょうか。
    浄土へ旅立てばあとの事は知らない。そういうわけにはいかないのでしょうか。
    終活って必要?自分がいなくなってからのことを心配しなければいけないのでしょうか。
    自分はいないのにその後の事をどうのこうの指図されても迷惑ではないの。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 18 8月 2016 12:14)

    ありがとうございます。
    まさに現代のテーマが凝縮していますね。
    真宗御門徒さんは勿論、「南無阿弥陀仏」の名号の許、また大抵の仏教徒であるならば
    命終われば即ち浄土ということでいたずらに「後のこと」への心配は無用でしょう。
    考え方としては一休さんの「心配するななんとかなる」でイイとは思いますが
    生きている時、元気で健康なうちにしかできないその準備はしておきたいものです。
    要は命については「阿弥陀さんにおまかせ」ですが、その「痕跡」(ご遺骨含め)は
    現前に残ってしまいます。
    引き継がれる人たちに何をどうするかを漠然でもいいので日ごろから話あうことが
    必要だと思います。
    「終活」なる造語が流行っていますが、これは最低限の「私の始末」の流れを事前に確かめ合うことだと思います。何ができて何ができないか。できないものはどうするか。
    日頃より家族内で一歩踏み込んだ話し合いを少しづつ詰めていかれればよろしいかと。