基本は誓願寺とセットで 誠心院  和泉式部

こちらも阿弥陀如来の六字の名号にご縁のあるお寺です。

新京極の超繁華街のお寺、誓願寺について昨日記しましたがそのお寺に隣接してあるのが誠心院(場所はここ)。

この二つの寺は切っても切れないご縁があります。

誓願寺が浄土宗でご本尊が阿弥陀さんなのはわかりますが、誠心院は真言宗。それがなぜにして関係が深いかといえば昨日記した世阿弥の「誓願寺」のストーリー。詳細は各お調べください。

 

誠心院も誓願寺と同様鎌倉期に誓願寺の南の小川通近隣に越してきてそのころからの関わりです。

同じようにして秀吉の「寺町政策」によって同地に参り、同じように明治初期の「新京極政策」によって縮小改編を余儀なくされたお寺です。

 

特に誓願寺の「誓願」については阿弥陀如来の「誓願」を思いますし、誠心院の「誠心」についてももとは今のように「せいしん」ではなく「じょうしん」と呼んでいたとのことで、そうなるとやはり「至誠心」」(観無量寿経)を思わないワケにはいきませんね。

 

するとやはり二つのお寺は宗旨が違えども何かが結びつけているというわけで、それが昨日も記しました世阿弥の「誓願寺」だったのです。寺の名は和泉式部の法名「誠心院専意法尼」からですね。彼女がそもそも阿弥陀仏に帰依したきっかけというのが早世した娘、「小式部内侍」への切ない親の思いからでした。また彼女が初代の住職であったとも。

 

「あらざらむ  この世のほかの  思ひ出に

            今ひとたびの  逢ふこともがな」

                     (小倉百人一首)

 

やはり誓願寺と同様「女人往生」の寺でもあります。

宝篋印塔は大振りで公称彼女が没したあと100年程度経過した正和二年(1313)に改修建立とありますので時代的にも申し分がありませんが、何せ繁華街のビルの谷間というところが玉に瑕。

 

よって「誓願寺+誠心院」が正しき参拝の礼で、どちらか一方というのでは古からの趣に反することになってしまいます。

 

最後の画像は能の場面を挿絵でしょう。おそらく江戸期のものでしょうか・・・。こちらの宝篋印塔は画家のイメージで書いたもので実際に現物を見てはいないものと感じます。

あきらかに隅飾りの形状が違っていますね。

この隅飾りの「立具合」が先日記した為因寺宝篋印塔の隅飾りの如く直角に近いほど「鎌倉期」の香りが漂うものなのですが、こちらを描いた画家は身近なところにあるそれらを参考に、あるいはイメージだけで模写したのではないでしょうか。

ちなみに坂本の慈眼堂にも五輪塔がありました。