徳寿院(信忠妻)と三法師の墓 ? 諸説混在  来迎寺

水戸黄門(徳川光圀)お馴染みの「黄門」とは中国の官職、唐名で「黄門侍郎」の略語です。

中国の秦、漢時代は皇居禁門が黄色に塗られていて、皇帝近くに侍る職をそう呼んでいました。

以前水戸藩亭邸跡をブログにて記しましたがその例に違わず位置は禁門(蛤御門)のスグ近くでしたね。

 

その唐名「黄門」の本邦「令外官(りょうげのかん)」の呼び名にすると「中納言」。

番組でも何度か聞いた覚えがありました。

 

さて、何度か記した近江の聖衆来迎寺ですが開山堂墓域の森可成

の墓の近くに今一つ看板付きの五輪塔があります。

看板には「寿々姫(鈴姫)之墓」そして「岐阜城主織田秀信公のご母堂」と記されています。

若干大きさの違いと微妙な産出の違いがあろう石質の差異がうかがうことができますが縦に同等の五輪塔が二つ並んでいます。

そしてなぜかその真ん中あたりにその看板が立っています。

前の墓がそうなのかそれとも後ろなのかよくわかりません。

 

まぁ普通に考えれば後方のものがその「寿々姫(鈴姫)之墓」と考えるのがスジですが。さらに後方に乱雑に並べられた一石五輪塔たちはその縁者そして近臣家臣団のものかと想像します。

 

またこの墓とは別に開山堂には彼女の位牌と肖像画が納められているようです。

その位牌には

「寛永十年 徳寿院殿繁林恵昌大姉 霊位 十一月廿三日

         岐阜黄門平秀信御母堂也 葬于当寺」 と。

 

「平」は「織田」の本姓で織田秀信、彼は岐阜に居て(秀吉から十三万石)「岐阜中納言」(従三位)と呼ばれました。

そのように記すとややこしくなりますが、彼の幼名は「三法師」です。

清須会議で「秀吉が担ぎ出したあの子」ですね。

ということで父親は天正十年のあの時(本能寺)の際、信長の跡目として二条御殿にいて自害に追い込まれた織田信忠ですから、その子は信長の嫡孫ということになります。

 

そこのところをうまいこと、まさに「担ぎ出した」というのが秀吉でその「大義」には誰も口をはさむ余地はなかったでしょう。信忠の弟たちとそれを推す勢力を一喝で黙らせました

秀吉は三法師を利用してのしあがった感がありました。

歴史を後から俯瞰すれば、やはり秀吉の魂胆はかなり悪質ように感じますが後世の語り物からのイメージがありますのでまぁ何ともいえませんね。

 

そのように歴史人物にはわからないことが多くあります。

織田家が秀吉に付け込まれるスキを、ぽっかりと空けてしまったのはその信忠の死であったことは確かですが、若き信忠の死によって彼の周辺にいた人たちについての詳細は不明なところが多いようです。

 

特に三法師の母親の「徳寿院」の出自については様々な憶測があって、彼女の父親についてこの寺に縁がある森可成説から武田信玄など有名どころを筆頭にまさに色々です。

素直に連想すれば森可成を一番に考えたいところですが、現在の主たる説は塩川国満(あるいはその子塩川長満)の娘というものです。

 

徳寿院=寿々(鈴姫)とする根拠はそ塩川家に残る古文書からのようですね。

塩川伯耆守国満という人は摂津国多田庄(兵庫県川西市)の国人領主で、荒木村重が信長に反旗を翻してから信長方として荒木村重の有岡城を囲んだ武将といいます。ただし確証はありません。

 

そしてまた寿々(鈴姫)の息子「三法師」~織田秀信の不運はちょっとした関ケ原の迷いというか成り行きで西軍(石田三成)に与してしまったことです。当初は東軍方の流れだったのですが・・・

 

結果的にその咎で岐阜十三万石は召し上げられたうえ、剃髪して僧籍に入ったのち高野山の麓で病没したといわれています。

その死もあまりよくわからないところがありますが、一説にこちらの聖衆来迎寺の母鈴姫の前の五輪塔が彼の墓であるとも言われているのです。

 

彼は存命できたといえども東軍(家康)の手を焼かせたことでいわゆる罪人に成り下がりました。

よって当時は世に憚って彼の墓として大々的に掲げることができなかったことが今の曖昧さに繋がっていると考えれば合点がいきます。

 

聖衆来迎寺には秀信と寿々(鈴姫)の肖像画まで残っているといいますので、ますますその五輪塔は(供養塔としても)母とともに眠る織田信秀(三法師)と考えたくなってしまいます。

今となっては想像の域は出ませんが・・・