東山三条白川筋 餅寅の小路 明智光秀の首塚

光秀の本能寺の件、最近になって信長による家康暗殺という謀略の存在とその手違いまたは、その信長の動きを知った家康+光秀の先制攻撃だったという説があります。

家康の伊賀越えなども手筈通りに遂行されていたというのですが、私にはそんな深読みはできません。

家康と光秀の謀議(家康謀略説)であったとしても、何も家康が丸裸状態で堺に遊んでいるというタイミングはおかしすぎます。

 

斎藤利三と長宗我部元親との関係が記された石谷家文書の発見から俄かに信長の四国の扱いについての反故に反目したという説が急浮上している中、家康黒幕説というのはちょっと突飛とも思えます。

 

私は当時の切羽詰まった状況と発生のタイミングからすると、本願寺の画策というものも捨てきれないでいます。状況から言っても当たり前のことです。戦況打開には信長ただ一人の首をあげる事が一番ですから。

顕如さんあたりの文書で解析されていないものが両本願寺の所蔵庫にまだ隠れているような気がしてなりませんね。

 

もっとも信長殺しに後ろで糸を引いていたような証拠となるものが本願寺から出てくるのもあまりよろしくないというところもありますので(特に秀吉時代)どこかの時点で闇に葬ってしまったことも考えられます。東本願寺の1世で顕如さんの長男の信長徹底抗戦の武闘派教如さんであったとしても、もしその画策があったとしても家康からすればそのあたりのところ「甚だ迷惑」したと思います。

 

本能寺が起こってその数日の間、一番喜んだのは何を隠そう本願寺以外の何ものでもなかったはずですから。あのタイミングは絶妙すぎましたね。

 

明智藪にて光秀の首と胴体が別れ別れになってから首は本能寺に晒されたうえ最終的に粟田口の処刑場(こちらからこちら周辺)に磔にされた胴体とともに晒されました。

そして家臣の夥しい首と一緒に首塚に埋められたとも考えられますが、実はこの粟田口処刑場とほど近い三条白川に光秀の首のみを運び出して、埋葬したといういわれのある場所があります。

 

私は何度か気軽にブラついていますが、粟田口のような車が行き交う場所ではなく、こちらは住宅地の路地の奥という感じです(場所はここ)。白川の流れも見ているだけで心が洗われるように感じます。柳もまた似合う場所で青蓮院・知恩院・東大谷にもごく近く、交通の便もバッチリです。

 

息子の京都行が決まった頃は、その首塚の目の前に学生寮があったことを思い出し、ここなら光秀の首塚にいつでもお参りできると思って、寮から出てきた学生に声を掛けたことがあります。

すると「ここは女子寮です!!」といわれて呆然としたことを思い出します。

事前情報なしでいきなり聞いただけでしたが、どちらかの学校の寮なのかも知れません。

 

こちらは注意していればテレビ番組で年数回は取り上げられるような名所になっていて、その学生寮の前には「餅寅」なる和菓子屋があります。

そちらのおかみさんがまず登場しています。インタビューを受けている様子をかなり見ています。

そちらには名物の「光秀饅頭」の2種を販売していてこれは京都のメジャーな土産に飽きた人にはお勧めです。

私は茶色の方専門ですが・・・。

 

三条通から数分で行くことができる気軽さがありますが、道は結構狭くて、駐車場所の類はありません。

「餅寅」の隣の奥の駐車場に車を停めて、饅頭を購入しながらお参りするのがベストでしょう。

一方通行になっていますので元に戻るには結構クランクな白川にかかる橋を渡って三条に出ますが、早朝など「餅寅」が開いていない場合はその三条通りに出る手前の信号のところに少しだけ車を停めるスペースがあります。

もっとも駐車違反になるかも知れませんのでご確認のほど。

 

こちらにある宝塔は粟田口から持ってきたといいますし、祠の中には光秀の遺骨というものまで安置されていますので信憑性の高さが察せられます。

しかし、境内の電信柱には無慈悲を感じますね。京都の電柱と電線は世界基準からして×、ペケですね。

また看板の内容は少々違う説を採用しているようです。

 

俯瞰図3枚は同一のもの。「都名所図会」から。

図の左端、光秀の首塚の当初の位置はこちら粟田口だったのでしょうか。右端には白川三条橋とあります。