秀吉の異常性  都市への入り口 粟田口刑場

門跡寺院青蓮院は別名「粟田口御所」とも呼ばれていました。跡とは天皇家や摂家が住職として勤める寺という意ですから主にその語は「格式」が上位であるということの表明。

 

かつては本願寺も門跡寺院として幅を利かせていた頃もありましたが、いつしかその言葉は本願寺の中から消えているようです。

 これは、親鸞聖人の生き方が格式や名誉というものから離れた世界にいたということから最近になって修正されてきたのでしょう。

 

ただし祖父や父が寺に入った頃にはしきりに「寺格」という言葉を耳にしていました。そもそも寺の格式を重視したり、その檀家さんや住職に名誉と品格を与えるということは「ちょっと違う」と首を傾げてしまうところですね。

 

一部、当流には住職の位階等、衣や袈裟の文様や色で「差別化」するという伝統も残っていますが・・・私は「最低ランク」であったとしてもその世界にまったく興味がありませんので「どうでもイイ」ってところですが。

 

父親にそういうと「いい年こいてあんな色をいつまでも着ていられない」とよく言っていましたね。

まぁ色好みの点で、私の好きな赤系統は殆ど門主さんなどしか着られない色だということは少々残念ですが。

 

どちらにしろ、今まで一度も衣も袈裟(輪袈裟であっても)も新調したことはありません。

だましだまし父が着ていたものを使いまわしています。

 

普通「粟田口」と言えば「京の七口」の一つで京都の中心部の三条大橋(三条通り)から東側、東山切通の街道筋(蹴上)のこと、あるいは山向うの山科との境界、東海道、東山道、北陸道への出入口-「関」ですね。三条口・三条橋口・大津口とも。旧東海道ということでもあります。

当然に粟田口は軍事上の要衝だったことは言うまでもないことです。

 

境界、町はずれの街道筋といえば刑場ですが、ここ粟田口にも各時代に数多の処刑を行ったという場がありました。

 

昨日記した将軍塚のある東山の公園から三条通りに下ったあたりに粟田口刑場があります。

付近は九条山という高級住宅地があって、そのあたりの人に試しに聞いてみました・・・。

 

滅多にすれ違わない通行人3人を呼び止めて聞けば3人とも「知

らない」と言われる始末。

いまどき「処刑場」のことなど知る人はさすがにいないでしょうね、気味が悪かったかも知れません。

 

三条通りは通行が激しく車は停めることはできないため、適当な場所を見つけて車を乗り捨てて三条通りを歩けば、簡単にその碑は見つかります(場所はここ)。

 

現在は斜面に碑が二つほど建っていますが以前はたくさんの石碑があったとのこと。明治の廃仏毀釈の流れで石は破壊されて路盤材などにされてしまったといいます。

興味をひいたのは明智光秀(坂本の西教寺)と斎藤利三の首がここに晒されたということですね。

 

山崎の合戦で死んだはずの光秀らですが、秀吉の手筈で首と胴体を見つけ出されて、一旦縫い合わせてさらに六条河原に引きづり出して斬首、そして首をこちらの獄門台の上に載せ、胴体も磔刑にされたということです。

 

斬首もさらし首もそもそも勝者のパフォーマンス。

見世物です。

ここぞとばかりに自分の正当性(信長の後継者・・・)を宣伝したわけですね。

しかし、いくらなんでもやりすぎでしょう。 

 

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コメント: 2
  • #1

    J.O. (木曜日, 29 12月 2016 21:53)

    豊臣秀吉のやったことを鑑みると自身が天下人になってからというもの、完全なる独裁者で暴君だ。謀反人・明智光秀に対する処刑パフォーマンスはともかく、1589年に側室・淀君が鶴松丸を身篭った際に大喜びした。そのことをとある者に京都聚楽第の壁に落書きされたことに立腹して守衛や犯行者一族とその近隣住民(大坂天満在住)を意味もなく六条河原へと連行し磔刑にした。また1595年には三条河原にて豊臣秀次一族と侍女らをこれまた理不尽にも問答無用で斬首刑に処している。秀吉というと人誑しと言われて明るい人柄を連想しがちだが、その本性はかつての主君・織田信長よりも残忍な人物であったのではないか?秀吉亡き後に徳川家康により豊臣家は滅ぼされることになるが、それには秀吉自身に最大の責任があったと言って全く差し支えない。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 29 12月 2016 22:32)

    ありがとうございます。
    まったく仰る通りだと思います。
    狂人による恐怖政治と形容したとしても過言ではないと思います。
    どうぞまたよろしくお願いいたします。