割られた名号  粟田口 明智光秀の首の行方

名神高速道路を利用して京都市内へ出入りするには2つのインターチェンジの選択があります。

当地から向かうとしたら「京都東」で降りることはまず常道。

真っ先に向かうのが大谷祖廟ですから。

 

もう一つ、「京都南」の利用は京都駅南、東寺や伏見稲荷方面に向かうならこちらがベスト。

私の場合は帰路入路にのみ使用したことがあるくらいで殆どが「京都東」の使用です。

 

この東インターで降りて京都中心部へ向かうに主たるコースはまた2通りあって大谷祖廟に向かうに静鉄バスがとるコースは100%三条蹴上からのコースです。

もう一つの現在の東海道(国道1号線)を辿るコースは2車線で大谷本廟・清水寺に近い場所に出られます。

ところが大型バスの右折はできないため鴨川手前の川端通りまで出てから四条通に向かうことになりますが四条通も観光バスは入れませんね。

それでも普通車で土日祭日以外でしたらこちら五条コースがベストかも知れません。

 

観光バス御用達の三条蹴上コースは平日だと通勤時間帯の通過となります。山科から御陵にかけてはかなりの渋滞を覚悟しなくてはなりません。

 

この通りが旧の東海道でその東山の切通し付近を粟田口といいます。処刑場として有名な場所でもありました。

あの明智藪に隠されたはずの光秀の首は探し出され本能寺で斉藤利三の首と並んでさらされた後、胴体に再び縫合されて斬られたり・・・その後粟田口街道筋に磔されて衆人の目に晒されています。利三は山崎の最前線で戦っていたのですが近江までは何とか逃げ切っていたようです。その後捕縛されて六条河原で斬首されています。

 

秀吉は山崎にて主君を討った光秀を討ったのですが、実際の総大将は織田信孝ですね。

あの天険の岐阜城にいて2度も落城させられた人ですが、山崎の戦で光秀を負かしたのは秀吉ながら、そのあとの遺体をもてあそぶ程度のことを差配したのは信孝らしいと感ずるところがあります。それは父と兄を闇討ちによって殺されたということから致し方ないかもしれませんが。

 

秀吉に利用されただけというイメージが強い三男でした。まぁそうは言っても利用する時は総大将と担ぎ上げておいて、自分にとって都合が悪くなればポイ。

それどころか信孝ファミリーは秀吉によって根絶やしとはいいませんがかなり殺されています。

 

さて粟田口処刑場墓碑よりも600~700mほど三条通山科駅方向に戻ったあたり(地下鉄では「御陵」)京都中心部に向かう渋滞中の車窓から右側に六字名号の石碑を目にしたことがある方があるかも知れません(場所はここ)。

かなりの大きさですから。

この辺りの現住所は「日ノ岡」といいますが京都の東山をやはり連想します。

この峠道の造作等の慈善工事と粟田口で処刑された者たちを弔うため念仏行脚した僧「(木食)養阿」(真言系)がこの石碑を建てています。

上人は他の処刑場(無常所)にも名号碑を建てたといいますが、粟田口は特に処刑者が多かったので特大(約4m)サイズにしたというお話しが伝わります。

 

先に記した供養塔名号碑のうち最も古いものです。

解説板に享保二年(1717)七月十五日とありますので盂蘭盆に合わせたのでしょう。

これは昭和八年に発掘さたといいます。

一時はバラバラに切断されて道路、側溝等の材とされていたとのこと。よく見ると接合個所がわかります。

まず大抵その手のことをやらかすのは廃仏毀釈の暴挙の輩です。心無い無慈悲な連中はいつの時代もいるものでしょう。

 

この名号碑の道路向かい辺りに明智一統家臣団の遺骸、首を埋めた首塚が作られたといいます。