鳥羽伏見の戦いの本戦地区 納所(のうそ)妙教寺

まずはご報告。昨日は北海道のHBC北海道放送局から連絡がありました。除夕の鐘について紹介したいとのことでした。

北海道オンリーです。いつの放送かも知りませんが・・・。

 

淀の納所、千本通り妙教寺(伏見区納所北城堀)の石標2点、古淀城と木村久夫の歌碑についてブログで記しましたが他にもかつての重ねての戦乱の地を思わせる石標が建っていました。

 

大政奉還の翌年、1868年の鳥羽伏見の戦いではその戦闘の主たる場所だったのがこのお寺の界隈だったとのこと。近くの公民館敷地内にもそのことを記した石標が建っていました。④画像。

榎本武揚が揮毫したという「戊申之役東軍戦死者之碑」です。勿論東軍とは旧幕府軍、京都見廻組・会津藩・桑名藩等に新選組のことです。そして勝てば官軍と揶揄された新政府軍が薩・長・土佐を主とする「西軍」ですね。

きっと榎本武揚は関ケ原をイメージしていたのでしょう。

 

榎本武揚はご存知旧幕軍ではバリバリの武闘派で穏健派の勝海舟とは離れて、蝦夷箱館の地まで戦い続けて最後はそちらで投降しています。

新選組の土方歳三らとは違って戦闘にて死することはなく、ゆくゆくは新政府に入って閣僚としても抜擢されています。

 

捕縛後、長州系からは処刑の意見がなされたものの、黒田清隆の彼への助命嘆願が功を奏し、結果生き延びる事が出来たのは、彼の「海軍」への指揮能力を当時重宝されたことでしょう。

彼は箱館では一旦は腹を切る覚悟をしたようです。生きていれば何とかなるということと人の役に立つこともできるといういい例でした。

 

それに反して、今の政治家というものは「生き恥をかき尚ツラの皮厚し」を地で行き、それが「志」であり「一所懸命」と思い込んでいるフシがあります。

これは周囲の者が諫めない、あるいは自身の利害を第一に考えて利用しようとしているからでしょぅね。

今度の件、都知事を守る風の見え見えの都議はこれから要チェックしてください。それが都民の使命です。

 

さて、当時の勢力としてはまだ幕府側が圧倒的に勝っていたはずなのですが、肝心の徳川慶喜がヤル気を見せなかったため、纏まりがつかず、優柔不断に日和見と裏切りを誘発させて旧幕府軍は大負けを喫することになります。

 

近代的重火器を勢ぞろいさせた薩長軍の戦術もその勝敗の行方に影響を与えたのでしょうが、まさにこちら妙教寺を中心に双方が布陣して、まさに十字砲火様の防御交戦が繰り広げられた場所といいます。

 

戊辰戦争の際に双方からの砲弾を被弾したといわれる本堂にはその痕跡があるとのこと。

男山(またはこちらそしてこちら)と天王山(またはこちら)の間に3つの河川が合流し、鳥羽街道から大坂方面・西国に繋がる街道に繋がろうとする要衝の地、から山崎の地は東西雌雄を決する戦乱の地でもあったのでした。

 

⑤⑥は今の京都南インターチェンジ付近で繰り広げられた戦いのきっかけ小枝橋の戦い。薩摩藩が閉鎖していました。

⑤が旧幕府方⑥が薩摩藩。いわゆる戊辰戦争のスタートです。⑦桑名藩⓼長州藩。