晩年の伊藤若冲が住まう  黄檗宗 石峰寺

NHKの地方版の昨夜8時の放送。

全国系では「歴史秘話・・」放送時間帯だったでしょうか。

名古屋放送局の製作で、「名古屋を中心とした観光」を外国人に見なおしてもらおうという企画のよう。

現状、愛知県に関わる外国人は空港に降りたり宿泊しはするものの、留まらずに東京あるいは京都・大阪方面に移動してしまうという歯がゆさをなんとかしたいというものですね。業界ではこれを「名古屋とばし」と言うそうです。

 

海外から招いた日本好きのブロガーの評価を交えるという企画だったようで(途中でチャンネルを回してしまいました)フランスから呼んだその人の「疑問」というのが「何故にして名古屋城にエレベーターがあるの?」でした。

続けざまに「フランス人はホンモノ思考、歴史的建造物なら松本城に行きますよ」と手厳しい談。一緒にいた案内人が「親切」を強調していましたが、やはりお城にエレベーターはやりすぎの感はあります。そもそも古い時代にエレベーターなどがあるワケもなく即偽物(ギブツ)をイメージしてしまうことはしょうがないですね。尾張特有の「お世話好き」だったら失礼、ただしまさに痛烈な指摘であって、そこに名古屋城の弱点を見たような気がしました。

 

名古屋を無理やり盛り上げようという番組進行に飽きて、スグにBSニッテレの若冲展の案内番組に。進行役のウザさには参りますがやはり若冲といわれれば触手が動きます。

番組の解説で「動植綵絵」の行方について触れていましたが、それと「釈迦三尊図」の三幅は当初相国寺に寄贈されたもの。

名目は近親者と自分が死したあとの永代供養のためでした。

 

相国寺はあの明治の廃仏毀釈の嵐によって困窮し、これらを皇室に寄贈して・・・これは名目的なもので売却と同じレベル・・・その対価を寺の維持費に流用したのですが、本来の若冲の意思とは違っていますね。それが「何故宮内庁が所有しているの?」の理由です。

その点を番組ではやんわりと「相国寺を救った恩人」とか、そういった経緯によって相国寺境内に若冲の墓を建立・・・と解釈できる流れになっていましたが、以前に記したとおり相国寺の若冲の墓は「寿蔵」でそもそも若冲自身が寄贈の絵と今でいう永代供養料を支払って建てた生前墓。

 

ということである意味明治の相国寺の困窮は大いにわかりますが、「若冲の本来の意」からは逸れていることになります。

拙寺でいえば檀家さんからの寄進物を売り払ってカネ(飯のタネ)にするということと同じですからね。本来はするべきことでは無かったと思います。

また、その事が無ければ相国寺はもっともっと有名になってたくさんの人たちが集まったことでしょう。

あの東京都美術館の行列を見て地団太を踏んでいるのは何を隠そう相国寺であることは間違いないところ。

あれだけのものが一同集合するもの(コレクション)はないですし、トータル時価総額でいえば100億は超えるのではないかという代物でしょうね(推定価格は私のあてずっぽうです)。

まさか100年でこれほど化けるとは・・・一番悪いのは廃仏毀釈という政府のでっちあげ。あらためて「バカバカしい」と吐き捨てたくなります。

 

さて、昨日の伏見稲荷行脚を檀家さん皆さんに「各自ご自由にどうぞ」と言ったきり、無責任ながら私は稲荷から離れてしまいました。離れたといってもごく僅かな距離を南に行ったところにある石峰寺に向かいました(場所はここ)。

臨済・曹洞宗に並ぶ日本の「禅宗」とよばれる宗派の一つ黄檗宗のお寺になります。本堂内部は石畳、門はまるで竜宮城を連想するかのようで大陸の影響を色濃く残している宗派です。

どちらかでも記しましたが、日本の仏教宗派数ある中、最もあの廃仏毀釈をきっかけに凋落した宗派と言っていいかも知れません。

 

こちらに足を伸ばしたのは伊藤若冲が最晩年を過ごし、実際に死したあと埋葬された墓があるということと、その参拝を兼ね若冲最晩年、下絵を描いたといわれる「五百羅漢石像」たちに会うという目的です。

若冲がこの寺に入った理由は、相国寺に絵画を寄贈した時の理由ではなく、まさに人間世界の地獄を目の当たりにしたためですね。天明の大飢饉という時節最困窮の締めくくりともいえる時期に発生した「天明の大火」です。

京都三大大火の一つと呼ばれるその火事は京都市中八割が消失したといわれています。天明八年(1788)彼が72歳の時にそれを体感するのですが、彼はその大火によって焼き出されて流浪し私財を失ってから初めて画を金の対価として描くようになりまた酷く惨めな思いをするようになります。

 

その二年後にこちら石峰寺に入って五百羅漢の下絵を描くなど約10年間をすごし、八十四歳でこの寺で亡くなっています。

 

墓碑名の「斗米庵若冲居士墓」の「斗米」とは書画一枚を米一斗で売って生活費を稼いだ晩年清貧時代の名乗りでその彼の住処を「斗米庵」とも呼んでいます。彼の墓の脇に建つ円柱形のものは筆塚。幕末の書家「貫名海屋」によるもの。最後の三枚がお寺のパンフより。

「五百羅漢の撮影はできません」とのことでそちらにてその感じでも・・・。

近隣のベタ混みとは対照的、閑静でのんびりのひと時。

景色画像は若冲墓からの景色、京都西山、日没風景を日々眺めながら佇む墓碑でした。

 

③の寺務所には例の展覧会のポスターが掲げられています。

②の深草墓苑を右手にまっすぐ稲荷方向に歩けば、道を下って回り込むことなくあの千本鳥居のまさに入口に行き着くことができます。

 

下図は以前記した若冲生誕の地、高倉通錦付近、錦通の図

看板が読みにくかったので拡大して記しました。ただし元画像はラインカメラ撮影でしたものでボケまくり失礼します。