石清水八幡宮  武人の崇敬  有徳なる人多々

拙ブログでよくいう「エライ人」についてまた思うこと。

そもそもの人というもの性質(タチ)がそうなのか・・・とも思うところもありますが、歴史上トップに躍り出たような人間はいかにも「目」というものを意識したものですね。

 

これは単純に「人さまの評価」の眼というものだけではなく(もちろん為政者としては必要です)、「当人の目」には見えない何か漠然とした「目」のことです。

これは「猪目」(♡マーク)の通り、

「私を常時見守って時に叱咤する目」のこと。

 

最近の学校教育でよく聞く言葉に「人の目を気にするな!!」の如くの語があります。一般的に少々消極的と思える性質の子供に向かっての教師の叱咤激励、ポジティブ思考への切り替えを意味する言葉だとは思いますが、私は今の世の中あってこの思想(「人の目を気にするな」また、最近では「空気は読まないでもイイ」風)が幅を効かせる現状は、それらに染められた子供たちの成長にあたってむしろマイナスに作用しているような気がします。また「プライドを捨てろ」などという言葉を指導者は安易に吐きたがりますが、使用方法が間違っていますね。

時と場合を思量してその危険な言葉たちを使用したあとのフォローもしなくてはなりません。

 

非科学的で申し訳ありませんがお天道様でもいいし(宗教的に仏であり御先祖様であり神である)「誰かが必ず見ている」・・・という思想が欠落してしまったということです。

要は「自分の力」とか「ゲットする」風の語が持て囃されている風潮にあって人々が自分本位に他者を無視して勝手に振る舞うような傾向に向かっているような気がしてなりません。

 

そこへ来て、都知事さんの知事になった(人生の勝者になった?、頂点を極めた?)からには公私は混同にして自腹などはきらない、生活費から遊興費まで税金を湯水の如くに使うというオトナが出てきて、それを論理だてた意趣変更の理論で自らは反省をしないという姿こそが正当であるというような姿を見せつけられては世の末とも言っていいかも知れません。

 

天下に君臨し自ら神として天下布武を号令した信長でさえ、神仏への喜捨は怠らず、庶民の声を聴いたものです。

少なくとも「みみっちい」「ケチくさい」「セコい」などと揶揄されることなどはあり得ないほど気にしたものです。

「気概やプライド」がありました。

何より「みっともない」ですよね。その語源は「見とうない」→「見たくもない」と言いますがまさに、あのような醜い姿は真似ないよう「いい大人」に成長できればイイのです。歳を重ねただけでは成長したとはいえないということです。

 

石清水八幡宮は「八幡」の通り「二所宗廟」の考え方とは別に武門(特に源氏)の者たちに於いても崇敬を集めた場でもありました。よって各名門武人どもに関わる文書や工芸品・建造物等が遺されています。

 

先般国宝指定となりました本社社殿(八幡市サイト)はどちらも圧巻ですがその中でも特に「瑞籬」(みずがき)に目がとまりました。「瑞籬」というのはこちらの極彩色本殿を囲む垣根・塀ですが、朱色の枠に鮮やかな緑が映えていました。その上部に施された透かし彫も見事です。うまく写せず恐縮ですが③画像下方の塀の格子状のものです。

 

東本願寺(真宗本廟)の勅使門の繊細工作にレリーフ(透かし)がありますが(こちらの③画像)このレリーフの連続模様を見ていると日本古来のカタチを思い起こします。

そもそもその連続した格子模様の◇の連続は「たくさんの目」を思わせるような気になりますし、あの武田菱にも見えますね。

また違った「目」で見れば地図でよく目にする「卍」型も連続しているようにも見えます。

 

こちらは例の悪名高い独裁者が使用したために世界的に酷く悪いイメージしかありませんが、これも日本の古くからの文様ではありました。

自宅に障子がある家はその格子を見ればその連続と大小に気づくでしょう。勿論「目」という漢字そのものも。

部屋の中のみではなく無数の目(先祖の目・仏の目・阿弥陀さまの目)を感じて生きることを忘れていたのかも知れません。

くさんの目に睨まれて支えられて人は成長させていただくものです。決して「独りよがりの有頂天」となってはいけませんね。これも歴史が証明しています。

 

本殿外周は熱田神宮でも見た信長寄進の土塀が。⑪の大木が楠正成お手植え伝承の楠とのこと。その手の広葉樹の大木に覆われているという感がありました。

 

⑨は毎度お馴染み、鬼門除け。北東方向(比叡山の方向になります)に切り込みを入れている様子です。