千本通 「人千人殺さば往生す」歎異抄  勝福寺

大坂の「千日」が元の墓場であったこと(ブログ)や最近当ブログで記している「千本通」の「千本」(上品蓮台寺)が葬送の道であったことからその字面から「たくさんの人の死」というものを連想します。

 

漠然とした個々の人生の終焉を重ねて表したのか、何かの戦乱における戦没者の「無数」を言っているのか、またその両方を

イメージしての「千」なのか不明ではありますが、当真宗での「千」というと・・・ただちに思い起こす言葉は「歎異抄十三」ですね。

 

弟子の唯円が親鸞さんとの問答を記した歎異抄、現代語訳が出て比較的読みやすい文書ではありますが、そちらはなかなか難解な個所と言われています。というか誤解の嵐が吹き荒れるところです。

ここの部分の解釈から往々にして親鸞解読不能との烙印が押されてしまうようです。

 

よく坊さんが口にする標記、「人千人殺さば往生す」で、かなりショッキングな「振り」です。譬え話であることは分かるでしょうが、いくら何でも・・・と唯円さんの困惑振りも手に取るようにわかります。

しかしこの歎異抄は唯円さんの著と言われています。この記述は読み手を意識しているはずですので、驚愕の導入部分としては「上手」としか言いようのないところではあります。

 

この第十三章の説は「悪人正機」(第三章)からの派生ですが、その「悪人こそ往生」の部分からそもそも一般的社会的思考にある人ならば「ちょっとおかしい・・・」という疑念が湧いてくるのはやむを得ないでしょぅね。

そこへきて

 

「たとへば一千人殺してんや、しからば往生は一定」(原文)

 

ですから、より一層わからなくなってしまいます。

 

 

しかしこれが御開祖の仰るポイントであり「人間」そのものに踏み込んで深く見つめた真宗哲学がそこにあるといってもいいのではないでしょうか。

 

私如きがそれに回答することはできませんので各各拝読いただいてそれを味わっていただくことが肝要です。

本質は「他力本願」=阿弥陀におまかせ=計算なし、物差しなし、はからいなし=自分なし・・・・私の(決めた)基準もなし・・・「善悪基準なし」・・・「悪人正機」・・・への関連の中の、「善悪基準はそもそも私の都合」であるからこれほどイイ加減な判断基準はないといったところを語ったところですね。

 

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」というのが人間であるということでしょう・・・。

「善人だから、悪人だから」という概念がガチガチに固着している私たちの頭の中は「千人殺す」ことに極悪非道を連想しますが、その行為に私が及ばないのは、「さるべき業縁」がたまたま「もよほさない」からであって、譬え「とびっきりの善人」を語る人であってもその業縁さえあれば、いつでもそのスイッチを押すことができるということですね。

 

今風に言えばその「スイッチ」を連想いただければイイと思いますが、「人のため、国民のため、世界のため」あるいは「平和のため」と善人面の面々が千人と言わず、何万人も人を殺してきたという歴史が世界中どこかしこに転がっています。

 

さて、息子の京都の新住居の続き。

彼の住まいは一言で言ってかつての「聚楽第」の縄張り内です。

引っ越しでは「千本通」を南下して「中立売」を左折して「堀川通」方向に向かい京都西陣公共職業安定所の向かいの角にある「聚楽第址」の石柱を横目に「大宮通」を左折して周囲の一通だらけを回り込むことを記しました

 

日用品食料の買い物は、交通量の激しい堀川通方向よりも、「中立売通」を「千本通」に向かうのがベストですね。

彼は自転車がありますので、難なく「千本通」へ向かうことができます。

「千本通」は古くからの商店街が連なる場所でもありました。

私もあの辺りを深く探求してみたいところです。

 

ただし、「中立売通」には「千本通」まで行かなくともしっかり食料品を購入できるスーパー「ライフ西陣店」や100円ショップがあって彼は今、こちら辺りで何事も済ませているようです。

 

そのスーパーの隣にあるお寺が勝福寺です(場所はここ)。

「落葉の尊形」と呼ばれる親鸞さんの像があるといいますが、いつその前を通過しても入口を塞ぐように車が停車していて、気楽に境内をブラつくという感じではありません。

真宗寺院ですから参拝ではない観光気分で立ち入ることは憚られますが、余程の踏ん切りが無い限りそれは諦めたくなるようなコンクリート建築物に包囲された閉塞感があります。

 

立っている駒札の概略を記せば・・・

 

『当寺はもと(夷川通にあって)清水庵」、「一條坊」と呼ばれ 親鸞聖人が一時期住居とした旧蹟である。

親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。

帰洛後は主に「教行信証」の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。

帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉禎二年(1236)に一条附近にあった清水庵に居住したという。

 

当寺に残る「御生骨縁起」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、

 

秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 

              無量寿国の  春ぞなつかし

                 

と一首詠んだ。

 

四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した弟子の「真仏房平太郎」は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。

それが当寺の伝わる「落葉の尊形」であり、その由来である。』

 

御開祖の歌は歯が抜け落ちる老体につき、自虐的ながら茶目っ気をも含んだ達観を感じます。辞世の如くですね。

 

石柱には「御草庵清水庵」「真仏房平太郎御化導」と見えます。「平太郎」は常陸国の人。

 

九十五歳で亡くなった拙寺婦人部をまとめた思い出深い千代さんの息子さんに現当主の平太郎氏がいらっしゃいますが、そちらから名をとられたのかと思ってしまいます。

その名を書面等で見る時、まず平太郎さんを飛び越して千代さんを思い出します。