新城菅沼家菩提寺  宗堅寺のこと 追記

私の住まう地区では「夕方にお墓参りはするものではない」という根拠不明の伝承があるようです。

先方様はお墓参りでも、私は年がら年中お墓の中にいるようなものですから、少々その説違和感ありですね。

日没近くに境内でお墓参りの方に遭遇することはかなりの頻度であるのですが、そんな時皆さん、かなりばつが悪そう。

異口同音に「こんな時間ですみません!!」。

勿論お参りやお念仏の心に時間制限はありませんので、私の口からは新喜劇のアキばりに「いいよぉ~」ですね。

 

とはいいながら他所の墓地に伺うときはやはり夕方は避けぎみの自分がありました。それは何より撮影画像が暗くなってしまうからです。

デジカメですので多少の暗さであっても何とか写してくれるのですが、やはりスカッとした感じになりませんね。

 

前回ブログでアップした新城の菅沼家菩提寺の宗堅寺の画像は昼間でしたが、私が最初に境内入った時間は日没直後。

日没という私にとって特別なアイテムと飯田線新城駅の2ショットを撮影してからお寺に向かったのでした。

晴れた日の日没ほど美しいものはありません。いつでもどこでもあの景色こそが私にとっての清涼剤となっています。

 

今回は先日記せなかった3点についてざっと・・・。

まず画像⑦「信玄砲」の件。文言に目を通していただければお分かりの通り、かなり「盛られている」感ありますね。凄いです。これは野田城の信玄狙撃の件に使われたという銃であるという主張のようですが、その件自体もあったかなかったか・・伝承の域を出ていませんからね。

しかし、「EKGこそ」(イイ加減)の私としてはこういったお話しは嫌いではありません。

惜しいと思うのは、もう少々やる気を出して宣伝して、拝観料を徴収してもいいので観光客を呼び込むネタとすればいいのですがね。

お墨付きが新城の教育委員会のみであって、市でさえ文化財指定になっていないような感じ・・・。

 

2つめが⑨「船長(ふなおさ)日記」の石碑。

このお話はあまり世間に知れ渡っていませんが、映画が1本できるくらいの冒険スペクタクルなのです。

 

船長「小栗重吉」の484日間の大平洋遭難漂流記です。

一見、船長(ふなおさ)に苗字があるので「武門」の人と勘違いされましょうが、こちら名字帯刀を許されたのは無事帰郷後尾張藩(半田村出身)からでした。

 

文化十年(1813)南知多師崎から江戸に向かった彼の督乗丸は遠州灘で暴風雨にあってから漂流、1815年に米国サンタバーバラ沖合で救出されたといいます。

乗組員は当初の13名から船長含めて3人になっていたとのこと。いろいろ経緯あって帰還は文化十四年(1817)。

 

小島蕉園が御前崎沖が難所中の難所と言っていたのを思い出しました。そんな劇画チックな大自然に放り込まれた極限の人間の心理とサバイバルスペクタクル、どなたか描いてみてはいかがでしょう?

時代劇に西部劇そしてロシア経由での帰還でもありますので描き方によっては面白くないワケがありません。

その「船長日記」の真筆本がこちらのお寺にあるとのことです。一つ目のお宝以上に二つ目は価値がありそうに思います。

 

そして三つ目。

菅沼家墓域にあって、菅原家のどなたの墓石よりも大きな五輪塔の件。富永家の五輪塔です。菅沼家が新城に入部してからのものですからそう古いものではありません。

 

「富永家先祖代々諸精霊」

「文政五壬午年十一月今泉帯刀延年奉行之」

 

新城は富永姓一流の発祥を思います(地名にもあります)がいわゆる菅沼家臣団の一家です。ただしその中でも当家はその主流で別格扱いです。同じ墓域に建ち、威風ただならぬ墓石のカタチと立ち位置について縁戚関係の濃さにつきましょう。

 

ここに富永家についてのサイトに解説文がありましたので転記いたします。

 

「三河国設楽郡野田郷を治めていた冨永直郷は、建武の中興で戦功を上げ足利尊氏の命により野田城へ入城。約170年間勢力を誇る。 冨永直郷より6代目の当主冨永久兼は、家督を継ぐ子供に恵まれず 田峰の菅沼定忠の次男竹千代を養子とした。」

そしてそれら後年になって供養したそうです。

 

室町初期とこの辺りの領主として古くからの名家であったことがわかります。

 

⑥⑦の宝篋印塔は境内に建つもの。