本邦それも元は駿河 数奇な運命 「左文字」

ダ・ヴィンチの作品、あの流転した本邦初公開の「糸巻きの聖母」についてその「数奇な運命」について昨日ざっと記しましたがその「数奇」という形容をするにまさにこれ以外のものはないと断言できるであろうそれは、本邦、それも駿河にあるべき逸品です。

「あるべき」というのはそうでない口惜しさがあるからなのですが・・・今は他所に渡っています。

しかしあまりに著名であるため各所で催される展覧会に招かれること多々、一所にじっとしていることはありませんね。

よってアンテナさえ張っていればそこここでこちらを拝むことができます。

 

名は「宗三左文字」、室町前期に作られた刀の名です。

元は無銘でしたが、画像の如くの銘が入れられています。

最初の刀の持ち主が畿内、堺の三好宗三(政長)だったことから「宗三左文字」と呼ばれていますが重要文化財指定での名称は「義元左文字」ですね。よって「義元・・・」の方の名が世に通っています。

 

所有者の変遷は目まぐるしく、またその所有者たちの名たるやそうそうたるものがあります。

まず、その宗三から(宗三以前はわかりません)信玄の父親である甲斐武田信虎に渡っています。天文六年(1537)武田信虎の娘が今川義元に嫁した時に引き出物として贈られたといいます。

信虎は息子の晴信(信玄)に甲斐を追放され、駿河に赴いていますがその際の手土産だった可能性も捨てきれません。

その後は今川義元の愛刀となっています。

 

義元は永禄三年(1560)にこの刀を持参して桶狭間へ向かいました。

そこで彼を討ち取った勝者、織田信長の所有物へと変わります。

 

「服部小平太鎗つけ、毛利新助其の首をとりたりけり。

左文字の太刀松倉郷の刀を分捕にすといへり (常山紀談)」

 

 

彼の戦勝の祝いに浅井朝倉の両首領の首に細工を凝らした話は有名ですが、信長は義元からぶん取ったこの刀に手を入れます。

刀身を短くして画像の如く金象嵌を施しました。

それが「織田尾張守信長」

「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」

の表裏です。2尺2寸1分半(69.0cm)。

 

やはり信長は絶好調の気分でその刀を大切に持ち歩いたのでしょう、今度は天正十年(1582)の本能寺の変によって信長の手から離れることになります。

刀は無事(信長寝所近くにいた松尾社の神官の娘が刀を持ちだし神官の父のもとに隠していたと)で、豊臣秀吉の元に献上され、その死後は子息の秀頼所有に。

経緯はわかりませんが、秀頼存命中に徳川家康に所有者が変わっています。

 

家康以降は徳川家代々家宝として伝承されていました。

維新後に明治天皇が織田信長に神号を与えて京都に建勲神社を建てたため、徳川家は明治天皇を憚ったのかこの刀をこの神社に寄進しています。

 

よって所有者の所在地は京都でした。

「義元」だから「駿府」だろ・・・とつい思ってしまう私があります。

知りうる限りのこの左文字の流転を場所のみ記せば

?-泉州-甲州-駿州-尾州-摂州そして江戸-京都ということになります。

これを「数奇」と言わずに何と形容しましょう。