千頭峯城の七人  「公家塚」は旧ミカン畑の中に

旧相良町と榛原町が合併して「牧之原市」という名称変更をしたことについては私が首都圏から戻ってきたら「そうなっていた」のでその経緯についてはまったく知らないところ。

ただ双方とも海のイメージが強い町でしたので、何故に「原」なのか―この地では舌状台地の上を「原」と呼びます―疑問には思いました。

 

榛原町の「原」も残ったことで榛原町民はある程度納得したのでしょうが、相良町民はといえば、ただただ消化不良に陥っていたのではないでしょうか。

今はこのあたりでは「海」を喜ばしく思う人は少なくなりましたが、当時から地元としてはかなり自慢とした「海」がありました。

 

新鮮な魚と遠浅で静かな波、夏は海水浴客であふれかえる周辺市町村の羨むロケーションでした。

現在は御前崎の埠頭、岸壁工事によって潮目がかわり、砂の供給がなくなって?潮焼けした海岸に成り果てていることはブログでも何度か記しています。

 

そんな中、最近になって俄かに期待をかけているのが、東京オリンピックの「サーフィン競技」の市内誘致です。

と言っても静岡県内にはあと磐田市と下田市そして全国で30か所がそれに名乗りをあげていますので、実現はなかなか難しいでしょうね。

1/30の確率で決まったとしてもこの市の人たちは相良と榛原の旧町民の折り合いが昔から芳しくありませんので、次は「どっちの海にする」で揉めるでしょうね。

 

しかしよ~く考えてみますと・・・「波が静か」はファミリーにはウリになりますが、この「釘ケ浦」のやさしい「波」での競技としてのサーフィンが適しているのか不明です。

また、昨日こんなニュースが市のHPにアップされていました。

 

まあ、市の名前は「山の台地」を称してはいますが、「海」への指向が未だ残存していたことについては一応よかったと思っています。

 

さて宗良親王率いる南朝方が幕府を迎え撃った遠州での最初の戦いは千頭峯城だったでしょう。

大挙する幕府軍に攻め立てられて、富幕山を敗走し、井伊の三岳城そして大平城と次々に籠城を変えながら転戦するも優劣覆すことはできずに宗良親王は遠州を後にしています。

 

その南朝方が最初に籠城した千頭峯城に、ある伝承が残っています。おそらく敗走軍の殿(しんがり)をつとめたのでしょうか彼らのものと伝わる墓が富幕山の西の麓、只木という地にひっそりと並べられています。

 

通称「公家塚」と呼ばれていますが、彼らが命を懸けて守った人がいたとなればやはりそれは宗良親王。親王は千頭峯城に籠城していたと考えるのが普通かも知れません。

 

供華が備えられていることから只木の地区で延々と祀られている墓であることがわかります。

これら七基の宝篋印塔や五輪塔類は古くから北朝方に討ち取られた公家衆主従の墓であると伝わっているのです。

 

看板が立てられているものの、字はかすれて何が記されているかは判読不能。市の管理としては「行き届いていない」という感じがしました。

もっともこの墓に辿りつくには相当の幸運というか人が見当たらない中での聞き込み調査がなければわからないような場所で、まずは通常のドライブ程度の探索ではお目にかかることができない「七人」なのです。

 

こちらは以前はミカン畑。

今はミカンの木を伐採してしまったそうで開けた丘にぽつりと七基が鎮座しています。④⑤。⑤のバックは富幕山です。

 

上記の如くの説が残りますが、それぞれの墓石を見れば、バラバラになっているものを組み合わせていたり欠損していたりで、正確年代は不詳とのこと。今はただただ朽ちて忘れられていこうとするライブを見ているが如くです。

 

ただこの「七人の・・・」墓を見て、伝承通りに考えると、彼らの人生とその最期とはいたいどんなものだったのか・・・黒沢の映画、「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」などを想像しながら思いを巡らしました。

 

場所はこちらです。

三ケ日方面から富幕山を目指して只木集落に進み「中島橋」⑦を目指してください。

橋を渡ってスグ左折、そしてまたスグ左折⑧。

⑨のハウスが出てきたあたり、人家が無くなって不安になりますが気合を入れて先の細道に進むと50mほどで「七人」とご対面できます。

命がけで守るものがあって死んでいったものたちの墓に是非お参りを。

⑤画像は富幕山から下りてきた図ですが、初夏の蛍がウリのようです。