立地も味も佳なり「すわはら」の裏は諏訪神社 

「監督責任」の言葉、怖いですね。

私の父親も私が20歳になるまでその語を口にしていたことを覚えています。

親が監督義務を怠っていればそれを負わなくてはならない義務が民法に規定されています。子供の無茶には親が責任をとることについての明文化ですね。

 

最近ではサッカーボール訴訟でその言葉を聞きましたが最高裁の判断では「危険性のない行為による偶然の事故について親は責任を負わない」との判断。

まぁ父親が私へ、私が息子へ思った危惧はその条件には当てはまらない「事故」(時に故意)についてのことですから判例については多少の気休めでしかありませんが親としていい判決だと思いました。

 

本日それと同様な新しい判例が出ましたね。

JRも私鉄も故意過失に関わらず軌道に入った人や物を起因とする事故や遅延についての損害に頭を痛めているであろうことは昔からよく言われています。

牧之原市にまがりなりにも鉄道と呼べるものがあったのですが、廃線以来もはやその手の事故についてはあり得ぬものとなりました。

しかし都内近郊で通学通勤していた頃と来たら日常茶飯事の出来事でした。

遅延に対して乗降客から取りつかれて返金に遅延証明の交付、代替交通機関の手配と想定外の経費が出てしまうことも知っています。

 

しかし今、それを「想定外」と記しましたが本当はすべて鉄道会社は「想定内」なのですね。そういう事故をすべて入れて「鉄道会社」なのです。考えてみれば軌道内は鉄道会社の敷地であってどこもかしこも一般道とクロスしている踏切だらけ。

その敷地を通らせていただく一般人の皆さんではありますが、このあまたの場所で事故が発生しないワケが無いのです。

鉄道会社としても承知の上ですよ。

要は多額の損害賠償請求は「見せしめ」「吊し上げ」の部類なのですね。

 

そんな中、91歳の認知症男性の徘徊により発生した(本人が撥ねられる)事故に対して、JR東海が男性の遺族の「監督責任」について損害賠償請求をしていたものですが、このほど1審2審の「責任あり」から最高裁の「責任なし」という判断が出たというものです。

JR東海は世間様にお金持ちのクセに弱いものいじめをしたというようなイメージを植え付けてちょっぴり恥ずかしい思いをしたでしょう。人情的にも電車に撥ねられて亡くなった遺族からさらにおカネを取ろうという二重の悲劇を味合わせるものでしたから。

しかし何よりもこの裁判は遺族方が2審まで負けていた中、踏ん張っていただいて裁判を継続していただいたことを感謝するばかりです。

おかげさまでこのような朗報に巡り合えたというものです。

 

裁判の継続は経費がかかりますし、負けた者払いは決まっていますので経済的にも辛いですよ。ここでの最高裁での大逆転は傍からみているだけでしたが、爽快でした。

大岡裁きを彷彿とさせた例ですね。

相手が企業ではなくお国の場合はまずそうはいかないのでそこのところは何とかしてほしいところ。

 

御しるし程度で選挙の付録と解していた最高裁判所裁判官国民審査も「オール×」はやめて、人それぞれを吟味しなくてはなりませんね。

 

裁判官がよく使う「特段の事情」という「例外」を示唆する「その時その時で判断してね」・・・風用語が使用されていました。たくさんの事情が交錯存在しうる中、ガチっと決めつけられいないということと、今後発生しうる事例に対応するための「のりしろ」部分ですね。

 

家族の「誠実にきちっと」ケアしている姿さえあれば熊野観心十界曼荼羅の「老の坂」でいうと、上りはじめと最後の下り部分の「人間」への「監督責任」は「ない」という判例と思っていいと思います。本当に安心させられました。

自分のその時に「何をしでかすか」というところも未知ですからね。

 

そう記すと、ではその「上りかけと下り終わり」の二つの件、今後上りの人は少なく、下りの人ばかりの世になることは周知の事。当然に昨日の判例は生きてきましょう。しかし実際に被害を受けた場合、第三者の権利はどう守られるかというところに視点が移りますね。

無理もないでしょうがそれを指摘する方はまず坂の頂点に立って扇を揺らしているに近い人かも知れません。

 

そこのところは既に我ら庶民の力を超えているのです。

少子化と高齢化社会のマイナスはお国がサボっていた咎ともいえますが、それを言ってもはじまりませんので、これから社会福祉を充実させて(施設、支援者)、高齢者のケアにより務め(経済的支援)ることが不可欠でしょう。

間違いが起こって第三者に危害が及んだ場合に備えて、それらを代わりに国が弁済するシステムの構築こそ、成熟したオトナの国(真の民の国)なのです。

 

政府高官の「(年寄りは)早く死んでくれ」的発言?も頭に思い浮かびますが、今の政治はまずその方向性にはないようですので、これからも今回に似たような(どこまでが監督責任かを争う)事案は発生するでしょう。

 

さて、実は先日の諏訪原城現説のあった翌日、なんとなくあの店「すわはら」の近くを通りかかったことから、それでは昼食を・・・ということで入店してみました。

勿論注文したのは1日15食限定の「おばんざい定食」を。

その際は運よくギリギリラストでセーフでした。どちらの皿も調理人の心配りがされそれぞれ自己主張。おいしくいただけました。

最後にデザート、黒糖と黄粉がかかった豆腐プリンが出て1200円也。

 

この店の駐車場裏に興味があって覗いてみれば・・・

諏訪神社が真裏、右手には堀を隔てて「重ね馬出」三つの曲輪が見えました。スゴすぎます。

私は沿岸の牧之原市民が最近心の中できっと思考している「駅近JR沿い」よりもこの城の近くが好きですね。

坪単価いくらくらいでしょう?これまで隠居地の夢は高天神のある土方でしたが今はこちらが絶対的所望。

ただし限界まで生き延びたとしたら、金谷駅から旧街道のあの階段はキツすぎる。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 02 3月 2016 10:19)

    先日、知り合いが「除霊をしてくれるところはないか?」と尋ねてきました。
    聞けば諏訪原城へ行き、井戸とか、お墓とか見てから霊がついてくるというのです。
    何を言っているのか「私はそんなことは信用しない、そんな悪い霊はこの世にいないよ」と
    言いました。そしたら墓場放浪記にその井戸のような写真が掲載されているのでびっくり。
    「そんな霊がいてもあなたのご先祖がきっと守ってくれるよ。」と返事をしておきました。
    あれは、灌漑用の井戸?それとも飲料用?何か本当のお墓でもあるの?
    ま その人は真剣でしたが。 その後その人は落ち着きました。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 02 3月 2016 12:26)

    世の中には人の不安を煽って、金員を取ろうとする輩が(中には本当に信じ切って
    親切心でいう人も稀にいらっしゃいますが)溢れていますのでその手のお話しは
    本当に日常的にあります。

    いかに人が弱い生き物であるかがわかるというものです。
    特に歳を重ねてこれまでなかったような体調の変異の原因を説明するに
    その傾向が強くなるようです。

    別れがあるのはなぜ?→出会ったから
    病気をするのはなぜ?→生きているから
    病気がちになったのは?→たくさん生きてきたから
    死ぬのはなぜ?→生まれてきたから

    ネガティブな状況はすべて私の(皆さんの)「生」に起因することばかり。
    翻ってそれらは「生きていること」の証明であり、それら(四苦八苦)と
    うまく付き合っていくという「生」の発想が大切かと。
    「一切皆苦」だからこそ踏ん張って生き抜こうという懸命な心です。

    一歩譲って方便ですが、仰るようにそのような不明のものの存在があるとしても
    無数にいる私の(皆さんの)ご先祖さん(仏たち)が放っておくはずがありません。

    また、その存在を肯定するとなれば私のような堕落した坊さんが
    多くの墓場や古戦場を巡っているのにもかかわらず健全無事にして
    いられるのはいたって不思議なことということになります。
    不思議はいま生かされている自分の命に向けてあるべきであり、いつも「ありがたい」という気持ちを忘れないようしたいものです。

    諏訪原城の戦時下の井戸としては二の曲輪と本丸の間のくぼ地である
    水の手曲輪の通称カンカン井戸があります。
    先般記したものは今のところ不明の井戸跡としか言いようがないでしょう。
    未検証の「おそらく井戸の址」のレベルです。
    ブログにも記しましたが井戸の発掘は危険で面倒で不発も多いということで
    とかく後回しになっているようです。

    菅山の石油井戸には掘削用に連れてきた囚人をそのまま埋めたという記録が残っていますが、井戸とはそのような不気味な場所というイメージもつきものですね。
    また菅山の井戸付近で霊がどうのこうのという話を聞いたことがありません。