日々驚き慄(おのの)き時に震撼す 「万が一」

目を覆いたくなるような惨劇がブラウン管(その語は陳腐-液晶でした)を通してお茶の間に飛び込んできます。

運転中に意識を失うにもいろいろ理由があるってことは知っていますが、先般梅田で起こった突発事故は加害者も被害者も双方避けようのない不幸な事故でした。

 

思うに加害者に関しては不運なれども「病没」で済ますことができましょうし、運転者としてこれから走る凶器とも呼ばれる

文明の利器を操縦するにあたっての「覚悟」~免許証を授与されたらその覚悟はなかば強要されている~というものがあるはずですので、遺族としても落としどころがありましょう。

 

問題は本来ではありえない状況で生命を落とし、怪我をして痛い思いを強いられた「ただの通行人」の皆さんと遺族の「怒りの矛先」と「心の安寧の闇」です。

 

「怒り」とは軽薄なる心情で「無視すべきもの」と教わりますが、ただしそれは建前と本音の世界。私たちは「人間」ですので自分のことになるとやはり違ってきます。

ちょっと違うだろう、無駄だろうとは分かっていてもその精神的解消を向けるべき何かが有るのと無いのではまったく違ってくるからですね。

 

理由のない不運の連鎖により人生を強制終了させられる事案は戦争環境に無い日本にあっては交通関係の事件が顕著なのですが、それにしてもそれら、多発しすぎのように感じます。

 

故意過失病気等、暴走車両は何処でも起こることであって、時に運転手、時に歩行者となる自身も加害者にも被害者にもなる可能性は十分にあります。

ただしそれらすべて「不可抗力」であり行政当局・車両メーカーに責任は無かったかといえばそれはちょいと違うでしょう。

道路管理者とメーカーは車は時として「コントロールを失って暴走する凶器」になり得ることをしっかりと頭に入れるべきですね。無防備無対応がすぎます。

 

車メーカーは運転者の安全と利便性快適性を追求した車作りを大概のコンセプトとしていますが、各センサー機能が高性能化している今、車両を機械的にコントロールできる装置の検討を進めるべきですね。

 

例えばドライバーの眼球、瞳孔、瞼や脈、呼吸を探知させたりハンドルにセンサーをつけるなど、もし手を放した場合は燃料の供給をカットしたり減速させたりと色々考えられると思います。

要は車は不特定多数の歩行者を保護する機能を重く配すべきということです。

 

私の遠乗り用のエクストレールはマニュアルミッションです。

よってスタートに際してはオートマチック車よりも余分な手間がかかりますし、エンストも適当にしてくれますので、「アクセルべた踏み」だけで吹っ飛んで行きません。

 

最近はなかなかマニュアル車は見かけなくなりました。

今は誰でもカンタン操縦のできるゴーカートのような静かな電気自動車流行りで、消費者ウケもよろしく、メーカーはそういう車ばかりつくれば「売れる」と踏んでいるようですが、そろそろ本腰をあげて「人にやさしい」とは何か、今一度考えていただきたいものです。

 

道路管理者は一定の高さを超えて縁石に乗った場合はタイヤを強制的にパンクさせるような仕組みにし暴走を最小限に留めたり、歩道管理者は道路に接した歩道出入り口に支柱等のガードを設置するなど、歩道の絶対安全地帯化をしなくてはこれからの高齢者ドライバー時代に対応できないのではないのでしょうか。

歩行者も歩きにくいでしょうがそれに慣れなくては。

道路沿いの店舗等にも客を招く場合、ガードの設置を検討推奨すべき世になっています。車道を外れた暴走車が店舗、家屋を駆け抜けるという事案も週一レベルで飛び込んできますから。

 

私は最近の流行り言葉の中で「自分を信じて」「自分らしく」「・・・らしさ」そして「自己責任」は不愉快どころかそれを発した芸人など白い目で見ながらチャンネルを即刻回すくらいになりました(「自己責任」・・・私は当初その言葉を使いまわした頃もありましたが・・・そもそもそれは「私の責任」の意で人様に突きつける言葉ではないはず)。

 

「自信をもって物事に向かう」あるいは「普段通りの力を出して」・・・くらいのものと同等で昔から聞き馴染んだ「やればできる」の如くの叱咤激励用語、他愛もないものですが、まったく今のそれらは意味不明な語です。「何それ?」ですね。

最近はそれを聞くと恥ずかしくなってしまうくらいです。

「自己責任」ブームは少々過去という感がありますが、やはり時としてそれを聞くことがありますね。これも鼻の孔を広げて「大人だから自己責任」などとのたまわれたりするとニヤッと来る言葉でした。

 

なぜなら自己についてまったく信用できないのが「私」です。

坊主でなくとも冷静に自分の胸に手をあてて少しだけ沈思していただければ了解いただけるのでは・・・

そんな弱い「自分」に「自分を信じて」などいったいどこにそれを信じられる根拠があるのでしょうか・・・いい年していつまでもガキみたいな自分であるのに若い連中の粗相に「自己責任」と言い放てるものですか・・・

 

ということで私は自分はもとより、息子の動向も信じられません。春休みのはずなのに帰郷もせずプラプラあっちこっち。

仕送りもしていないのでそろそろ金欠のはずなのにダンマリ。

 

昨日は気が付かないうちに携帯電話に不在着信が3回。外で仕事をしていましたからね。

東京都内からの不明な電話番号でした。

1回の知らない発信番号の着信は無視しておきますが、「3回」はさすがに気になりましたので検索。発信は都内某所の児童相談所からでした。そういえばあいつはまだ未成年・・・「児童」には違和感がありましたが想像が頭の中をぐるぐると。

 

「コレはあの野郎、京都にいる筈なのに東京に出て何かやらかした」と思うのが通常の親の思考でしょう。

夏休みには東京の友達のアパートに転がり込んでいたことがありましたので。

 

「相談所からとはいったい・・・?」ということでこちらから問い合わせ。事情を説明し回答を一旦待ちました。

あの者だけは「万が一」などという言葉では済ますことはできないくらい何度も裏切られていますから。

私もたくさんやらかしていますが、彼ほどではありません。

まぁ「分野」が違いますけれど・・・。

 

当方としてはその間、息子に電話して

「てめぇ一体どこで寝とぼけてやがるんだ!!」くらいに怒鳴りちらすと「寮(京都)にいるし何の事?」でした。

しばらくたってから相談所から折り返しの電話が。

「大変申し訳ございませんでした。間違い電話を重ねてしまいました。」でした。安心はしましたが気を付けていただかないと・・・それも30分おきに3回ですからね。

 

早とちりは偶然が重なったことで当方が勝手に誤解したからですが、家庭内はよりいっそうギクシャクすることになります。

自分自身ですら信じられない弱い身です。

坊主の説教ではないですがまさに信じられる、信じるべきは阿弥陀の本願のみがこの世のこと。

娑婆世界の当然と思われた「信」が崩壊して即「阿鼻地獄」を見せつけられているではありませんか。

 

画像は息子が先日遊びに行った安芸宮島の図。

牡蠣が喰えるようになったとは・・・。広島城は行かなかったそうです。

原爆ドームなども行ってもらって少しは勉強している姿を見せつけてもらいたいものですが、牡蠣喰って香川でうどん喰っておしまいとのこと。その辺のところは親のケチをつけるところではありませんが・・・

まだしばらく「引っ越し手伝いの予定」があるので「帰れない」とのことでした。自分の引っ越しの件も「親の手不要」の示唆ですね。

 

本日午後より世話人会。

「万が一」に備えるため、AEDの導入を議題に入れます。