世楽院   松浦兵庫頭  朝倉筑後守宣正 「群類」

以前、遠州松浦姓の発祥の地?、倉真城の松浦兵庫助について記しました。その記述に、興味深いお話しをコメントいただきました(倉真城)。

 

「倉真温泉」と「原泉村に通ず」の古道交差点の石標のある

「金井場」の廃寺跡のその地名「金井場」について、近所の年配の方をつかまえて、その由来をお聞きしたのですが、「金でも出たのかも」のなんとも歯切れの悪いお応えがあったことは覚えています。

 

昔の事を伺うに、「年配者に聞く」というのが、この世界の鉄則なのですが、なかなか古すぎるお話しというものに対して「よくわからない」というのが当然のところ。

よほど深く突っ込んだ興味が無ければやむを得ないことではあります。

 

今回のその方によれば上記倉真の「金井場」は「鐘鋳場」からというご指摘でした。

となると「鐘鋳」の文字とその読み(寺の鐘を鋳造する場所―カネイ場)を「金井」への変遷は簡易な文字をあてて呼びやすく、記しやすくしていった結果でしょうか。

そもそもは「カネイバ」の呼び方、耳から入る音が重視されているので、漢字変換などはどうでも良かった時代ですから。

なるほどと合点がいく説で興味深いものがありました。

そうなると世にある「金井姓」の発祥も鋳物・鋳造に携わる渡来系ご先祖様の存在を推測することができるかもしれません。

 

さて、倉真城は先般記した松浦兵庫助の石碑の背後の丘のことをいいますが、そちらには世楽院というお寺がありました。

その際、墓の探索で見落としていた墓碑がありましたので、この機会に紹介させていただきます。

 

1月の中旬に母とドライブがてらにこのお寺に寄り道したのですが、さすがに日が傾いて~山の東側にお寺があります~冷え込んだため母は車の中で待機していました。

 

墓域はちょうど永代墓の工事中の様、その近くに、一つの墓石を移動設置するための「準備中」という場面に出くわしました。

こういう場所(墓地の前面という一等地)に新たにベースを設けて、人々の目に触れやすい場所に移動するということは、「ただものの墓ではありません」ということ。

それも寺の歴代住職系の墓である「無縫塔」タイプでは無いということでまずは着眼するところです。

 

見ると「群類」の墓標。珍しい墓碑銘です。

こういうインパクトのある彫物を見ると、昔聞いたキング・クリムゾンの「エピタフ」を思い起こします。「epitaph 」は「墓碑銘」のことで、どの墓にも何かしら記されているものですが、この前面に堂々と深く彫り込まれた二文字はわが人生を俯瞰する達観のような思いが感じ取られて、「イイ!!」と感じ入ります。現代は「カッコ良さげな墓標」ばやりですが、コレを自らの墓に記すことができれば、かなり「男前」です。

私の場合、累代の「南無阿弥陀仏」に小島蕉園の手による墓碑がある墓石がすでにありますので・・・

今一つ連想するのが塙保己一の編纂した歴史書『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)です。この辺りから持ってきたとみるのが常道かも知れません。

 

その「群類」の墓石を見ると・・・

「松浦兵庫頭」と記されています。倉真城の築城者の名が記されていました。

ただし並列されて今一人の名が「朝倉筑後守宣正」です。

 

このお二人の仲良く並んだ墓石とその二人の共通性について今一つハッキリしません。「松浦兵庫頭」の墓が世楽院にあるのは倉真城だけにまったく不思議はありませんが、後者の名は少々驚き。それも一つの石に・・・。

共通する縁故者が後世になって建てた供養塔の類かも知れません。

 

そしてどちらかといえば、「朝倉筑後守宣正」の方がメジャーな人ですね。その字の如く越前朝倉氏の遠縁といわれます。

一説に越前で同族間の争いに敗れた祖父の景高が駿河今川に逃れ、駿河国安倍郡柿島に住し、武田家そして秀吉時代に中村一氏配下を経て家康の元に参った人です。

家康の名家好きはここにも生きていて、彼は重宝に戦働きに使われて功をあげています。特に秀忠付になっての上田合戦の際、徳川方の大失態の中のヒーロー、「上田七本槍」の一人に数えられています。まぁコレは捏造説が主ですが・・・

 

朝倉宣正は一時期掛川城主としてこの近隣に居たことがあって何らかの経緯は推測できますが今のところこの墓石の意味はわかりません。

そろそろ墓石台座が完成している頃ですのでブラっと母親を連れて行ってみようと思っています。

 

尚、秀忠から駿河大納言忠長付けになってから不運の人。

忠長に連座して当家は改易されてしまいました。

 

尚、世楽院の「スイリュウヒバ」は門前から見てその大きさがわかります。その木と門の間にある鐘楼の鐘が見えますが「カネイバ」の伝承はこちら世楽院の梵鐘を鋳造した場所だったといいます。

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (土曜日, 13 2月 2016 23:56)

    松浦兵庫頭など本当に最近になって知った名前でして
    横地氏滅亡前後の時代の人でしょうかね
    村同士が戦乱に明け暮れていた時代ということになりますね。
    大代河村家の物語では、倉真は金谷方面とも交流が深かったようですね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 14 2月 2016 09:43)

    ありがとうございます。
    時期的には、今川氏親による斯波系遠州への浸潤と駆逐の時代ですね。
    遠江三十六人衆といわれる猛者たちが割拠していた時代です。
    歴史から消えていった多くの者たちの歴史を感じます。

    この地域は西-北-東に粟ケ岳をぐるっと回る位置関係で、「裏街道」が想像できますね。
    深い関わりがあったことが推測できます。