里山の倉真城は戦時不利  細長低台地の尾根

 先に倉真城と推定されるそう高くない丘陵の東側に点在する「里在家」(さんざいけ)の地名と城の石碑を紹介しました。

倉真の村落(場所はここ)は「J」の字状に湾曲した倉真川とその川沿いに走る街道の内側、倉真の城のなだらかな丘陵に点在していますが、「里在家」は主要な倉真の集落とは異なる場所にあります。

倉真川に架かる里在家橋から進む道の脇にその集落はありますが、私はこの道を大手道であったと推測しています。

この橋を粟ケ岳方向に渡った辺りの街道筋にあの「小さい方の石碑」があった場所で、古くからこの川向うを城域という感覚があったかと思います。


しかし現在の登城正攻法は世楽院というお寺からお邪魔するのが常道ですね。

世楽院は元はかつての清楽寺というお寺からの名称変更。

遠江三十六人衆の一人、城主松浦兵庫助はじめ一族が「城を枕に」自刃、討死滅亡したあと、その城址に移ったといいます。


当然に境内の古そうな墓を探しましたが、量的には多くは無く、特に目を惹いた五輪塔ベースの「宝塔」ー火輪から長く突き出た宝篋印塔の相輪状飾りのもの他中型の五輪塔と小型の数基に残欠少々といったところです。

一番目立つ墓石の見た目の「古っぽさ」だけで記していますが、城で亡くなった人たちを弔う意味で建立したものと推すことができる墓標なのでしょうね。

むしろ無造作に並べられた小さな一体型の五輪塔にどんな人だったのだろう、どんな思いで墓が作られたのだろう・・と毎度の如く思いを馳せます。


城域は里在家という名称を対比して呼ばれたものがここにあるとすると、「松浦一流」の惣領が城内の館にあり、庶子がその城の大手に住んだということが考えられます。

ただし「在家」という発想は仏教用語としても使用しますが、その際は寺院僧侶と在家信者という対比になります。

私は勿論、前者(惣領・庶子・・的)の方ですね。


松葉城のところでも記しましたが、松葉城とは違い、この倉真の城はいわゆる里の城で領主は庶民の生活と対面しています。

よって松浦氏の主たる館がこちらにあったことを推測しますが、このお寺が館跡だったと。主郭であったという意見もありますが。

当然にその背後が有事の城なのでしょうが、以外に広域です。

倉真の城をお寺の境内のみと錯覚しまいがちになりますがそれでは規模が小さすぎます。

いわゆる鎌倉以降の地頭系から発展した武家館はだいたい「一町四方」(約100m四方)と言われていますが、境内もその感じです。


境内に続く山門近くには土塁を想像できる掻き揚げ風段差が覗えますし、明らかに堀を刻み、裏山を歩けば「堀切」を推測できる遺構が見受けられます。

比高が小さく要害性防御性という点では難点があり、決して籠城して長期に持ちこたえようとする城ではありませんね。

松浦一統は明応六年の末に滅んだといわれていますが、不意打ち等意表を衝かれるなどしてチャンスを逸したのでしょう。


この城の西部にはやはり遠江三十六人衆の一人、「西郷殿」が控え、倉真城よりも堅固そうな城塞がまたぞろ林立しています。


境内墓地域から東の粟ケ岳方向を見下ろせば「里在家」集落(赤枠)が。松浦姓ばかり。