徳川家康の胸中     烽火の約束   青田山陣場峠

たびたび記していますが私が高天神城について興味を持ち出した頃の「教科書」といえば、土方地区郷土史を研究する増田実氏の「高天神城址案内」(昭和38年城東村鶴友会)と藤田清五郎氏による「高天神の跡を尋ねて」(昭和43年)です。

 

藤田氏は号を「鶴南」としていましたし、増田氏(号は「双鶴」?)の「鶴友会」、その共通点はすべて「鶴」。

高天神城は古くから「鶴翁山」あるいは「鶴舞山」と呼ばれていたことからですね。

 

天から降りてきた翁が鶴を好んだという説と山並みが鶴が舞っているように見えるからとありますが、後者はいかにも後付けの様。なんといっても空からそのカタチをうかがうことはできませんし・・・。

とにかくこの地区で「鶴」といえば「高天神」だったわけです。その両教本とも机のすみに置いては時折眺めている私ですが、その藤田清五郎氏による「高天神の跡を尋ねて」(お店を閉めた高天神最中の中島屋さんからも増版を戴きました)の中の標題(P22)に標記「徳川家康の胸中」があります。

 

天正元(1573)年に武田勝頼29歳は金谷に諏訪原城を高天神城攻略の起点として築城したあとにすぐ翌年2万の兵力で高天神城を囲みます。

諏訪原城からの勝頼進軍の経路は小山(吉田町)-相良-塩買坂です。勝頼は信玄の斥候戦の前例、恒例とも言っていいこの塩買坂に旗差しを立てまくり高天神を威圧しています。牧之原台地の西端の塩買坂は高天神城から見ての東側の景色に入ります。

 

そちらから一気に高天神へ丘を下って向かうのではなく、一旦国安川河口あたりまで迂回したうえで中村を北上して兵を押し上げていったのも前回(信玄)に倣っているようです。

最終的には高天神城の鼻先の毛森という地に陣を敷いていました。ここに勝頼の慎重さが伝わってきます。

 

高天神に向かうにその北側にある諏訪原から大井川沿いに下って相良経由で高天神に向かうというのは、まずは東と南の様子を見ながらの「焦らずゆっくり」です。

また偉大な父の通った道を再び歩むということもありましょう。

というか、この段階では前年(天正元 1573)の「信玄の死」は伏せていたはず。「父親信玄だったらどう動くか」という思考が働いたということかも知れません。

 

私どもが諏訪原から高天神に向かうにあたって、何よりもそのような遠回りはしませんし。

まぁ籠城方(徳川方)の予測する大方の攻め方の進行コースにおいて当然に各種仕掛け等トラップ的な戦術を施して待ち構えているはずで勝頼の選択したコースには逆を突かれた格好となってたことは事実でしょう。

 

私が諏訪原城からのコースで真っ先に思いつくのは、能ケ坂砦、あるいは獅子ケ鼻砦の守りを厚くすることくらいでしょう。

要は北と東の守りです。

 

その状況の中、後詰に行けば決戦となることは目に見えていますので、三方ケ原(関係年表)で、こてんぱんにやられている家康は自分ひとりでは大いに心細く、信長の援軍を待ちます。

 

かといって元今川家臣団からの合流とはいえ小笠原長忠率いる高天神衆には姉川はじめ各戦にて先方をつとめさせるなど戦局の功労は目ざましいものがあって、捨石とするわけにはいきません。まして、籠城も長期間となって兵糧も欠乏し戦意が限界に達している城内からは浜松待機の家康に「早く出兵を」の伝令が。

 

そこで「高天神の跡を尋ねて」の22ページ、「徳川家康の胸中」の部分を転記します。

 

「城主長忠は浜松の家康へ、相田又兵衛・伊勢治部右衛門・匂坂牛之助等を度々使者として馳せられ、その都度戦局の危急険悪を伝えて援軍を求めた。時には浜松の援兵が横須賀の大谷山に、また大坂山に旗を立て、掛川から城飼郡の北部街道を牧野原塩買坂までを切取るならば甲州の大群は死地に陥り、退却の余儀なき状況に入らば、城中から切って出て、相応じて挟撃するならば敵兵一人も余すことあるまじと書面に認めて援兵を願った。

 

ところが当の家康は一向に腰をあげなかった。嫡子信康は身を挺して援軍の必要を強調したが家康は容易に取り合わなかった。だが家康は一方では小栗大六重常を岐阜に遣わして織田信長の出馬を願った。

 

信長は『勝頼が遠路城飼郡に侵入して長陣すること誠に幸いである。城兵は然る可く敵を操って後詰の至るを待つように。

信長は尾張の兵二万を率いて清州を出発しよう。諸国の軍勢も馳せ参ずる事であろう』と。

 

更に城内からは、城主長忠最後の密使として、城中きっての忍者匂坂牛之助、別名向坂加賀半之助光行を浜松に赴かせた。

牛之助は家康に謁して

『浜松から僅か十里の所でありながら、殿には与八郎長忠ほどの戦功のあるものを無為に死ねと仰せられるお気持ちかどうか、とくと承って参れとのことでございました。』と言上した。

家康は依然として『すぐにも援兵を出すことにする』と言い放った。牛之助は

『そのおこたえは、先の使者への返事と同じこと。この度は

何日、何刻までに御到着のこと迄 しかと承って帰りたい。尚その節は烽火(のろし)の合図のできることまでお示し願いたい』と述べたところ、

家康は『しからば五月早々到着と致そう。さらば牛之助、掛川の南、青田山に烽火をあげようぞ』とのことにて牛之助は急いで帰城復命したが事実は現れなかった。

烽火は青田山に一番手、二番手、三番手と続けて打ち上げられたが援兵は待てど暮らせど到着しなかった。

 

一方家康は先に高天神城軍監として派遣してある大河内源三郎政局の下へ藤沢直八を密使として送り、城主長忠の動静を探らせていた。

また、小笠原は旧来今川・武田と深い関係にあることから長忠の武勇を讃えつつも常に警戒していた。

姉川の合戦には高天神勢を半数岡崎に留め置いたり、三方ケ原の戦いでも高天神小笠原勢の去就には注視の目を離さなかった家康である。

 

藤沢密使の報告には『城主長忠 己に窮地に立ち入って、甲州方と連絡している。大河内はいかなる事態になろうとも、家康公の命あるまでは城を捨てませぬ・・・』とあった。斯くして家康の胸中には高天神の命脈 幾ばくもなくして落城することであろうと考えていたようである」

 

藤田清五郎氏はそのように締めていますが、私の考えは違います。文中信長の考えが記されていますが、まさに勝頼率いる甲州軍の戦線は伸びきっている状況です。こういう場合攻城戦の膠着状態は避けなければなりませんので甲州軍も高天神城内守備軍同様に焦っていたはずでしょう。

 

私はここで天正三年の長篠城と設楽原の戦いを連想するのです。信長の周到綿密な計画・・・「馬防柵と鉄砲」ですね。

ひょっとするとそれと同様の作戦を信長と家康がめぐらし、時間稼ぎをしていたのではないかと思います。その真意を小笠原長忠にはもしかすると「裏切られるかも」という不確定な要素が、ギリギリのところで家康の口からは、「行きますよ」としか言えなかったのでしょう。

 

結果的に長篠城の鳥居強右衛門とは真逆、「家康は来ない」だったのですが、家康の真意(「Shape of My Heart」・・・ )を確りと伝えておいたら、城内の意見は統一されて、勝頼の懐柔策は跳ねつけていたと思いますが・・・。

「たら」「れば」ですが、長忠に肩を持ちたくなる気持ちも残ります。もっとも大澤寺前身の本楽寺は家康方の陣となっていたところを甲州方勝利によって敗走する際のドサクサで炎上したと伝わっていることはどこかで記していますが、それでもです。

 

さて、家康が烽火(のろし)を「あげようぞ」と指定した青田山。

「掛川の南」とありますね。

場所はほとんど東名掛川I.C.の真ん前ということになります。

小笠山砦からなだらかに東へ下る丘陵ですが、ここは古くから街道筋。塩の道ですね。

現在は新旧二つのトンネルやら切通しによって閉塞感はありませんが、昔はこの丘陵を超えなくては南側(高天神城方向)から掛川の町に入ることはできませんでした。

 

掛川城からは目と鼻の先、掛川城の朝比奈泰朝の元に逃げ込んだ今川氏真を追い込むために周辺に多くの付け城・砦を設けますが家康はここ「青田峰」に陣を張りました。そのことから別名「陣場峠」と呼ばれています。

 

画像①看板の文言、烽火をあげたのは高天神籠城方ではなく家康方でだと思いますが・・・。ちょっと紛らわしい記述です。

度々援軍を頼みに来ているのに「援軍がほしかったら」はおかしいですし、籠城方がわざわざここまで来て烽火をあげる意味がわかりません。

 

画像②小笠教育会館に車を停めさせていただいて上がるのが一番(場所はここ)。南側からのコースがありますが、住宅と畑で駐車場所はありません。③急ですが階段があります。

④赤い屋根が教育会館の屋根。東の端からは富士山が見えます。下に見えるこの道を行ってT字路を右に東名高速沿いに行けば菊川、相良方向に行けます。向かいの木々の覆う山が家康が掛川城を囲むために作った杉谷砦。

ちなみにこちらは取りつく場所が不明のためチャレンジしていません。こちらの山の後方が「ヤマハリゾートつま恋」になっていますので、警備は厳しいでしょう。

 

⑤黄色矢印が掛川城、緑が粟ケ岳。

⑥掛川城アップ。⑨牧之原台地が見えます。バイパスの高架が。⑩最後の図が西の方向、小笠砦方面。