立春の陽気に「勝栗山」  岩水寺裏散策と五輪塔

立春の無風の境内に咲く梅を見て、行ってみたかった岩水寺(がすいじ)方面へ。勿論、新東名高速を選択。浜松北I.C.から10分もかかりません。

余計な事ですが、こちらは浜松市「浜北区」になります。

もし「北区」でナビ検索して地名の「根堅」を探しても出てきませんので・・・(場所はここ)。

 

それぞれ皆さんによっては、人間の持って生まれた四苦八苦(生老病死)についての解決を願う(現世利益)べく参拝を集めるお寺として浜松地区では有名なお寺で、真言宗の別格本山。

行基さんの開基と伝わる古刹です。平安期にはより広大な寺領と伽藍を有していたといいますが、寺の一大事である「火災」に幾度も見舞われて諸記録等も消失しているようです。

 

お寺参りが主眼でなくとも、この辺りは絶好の森林浴とうまい空気に景観、春は桜に秋は紅葉がウリでもある地でもあります。

 

「貴人南面す」は以前、奈良あたりのブログで記しましたが都市の北側山麓には墓が多く見られます。この浜松の地のこの山麓、「勝栗山」は都市部を南面する墓域といってもいい場所かも知れません。要は古来からこの地は墓場。

そしてそれらはまず山の南側に設けられることが多く、かつ開口部が南を向いているのがだいたいのパターン(画像⑮は将軍塚)でしょうか。亡くなったあとも縁者の「生活」を見守るというカタチですね。

 

お寺の名の通り、露出した岩を貫く谷の川の様相を見て真言系の教えと重なって修験の場となっていたことも推測できます。

 

古墳時代からの墓域であったことは100以上あるといわれる古墳の数が物語っています。旧石器時代の「浜北人骨」もこちらの境内地から出土していますね。

 

この勝栗山には多くの墓石が建てられていたそうですが、近年になってそれらはほとんど整理されてしまっているようです。

特に「何故?」と思わせるのが「勝栗山」から出土したといわれる陶製五輪塔が愛知県陶磁美術館の所蔵となっていることですね。焼成も静岡県の湖西の窯のようです。

 

五輪塔は石材というのがそのイメージですが、陶製というところが何とも珍しいですね。また石塔といえば鎌倉後期あたりからが主で早いころのものには記年銘が無いのが主流。

ということでこちらは「五輪塔」のカテゴリーでは「超」が付くほどの珍品でしょう。勿論重文指定とのこと。平安時代は久安二年(1146)の銘があるようです。

 

私は境内門前の駐車場に車を置かせていただいて、徒歩で東側から反時計周りにぐるっと一周、途中、街に近い場所としては珍しい吊り橋に寄り道してから、この寺の西方にある田村神社を経て降りて来るという2時間程度の行脚を。

 

勿論墓域散策も忘れません。

薬師堂(画像③)の脇の通路に目をやれば無縫塔が数基、これはと思い歩を進めれば④⑤の五輪塔にお目にかかりました。どなたのものかは不詳です。

 

田村神社は征夷大将軍の田村麻呂。天竜川流域にはその伝承はよく聞きます

逆コースでこちら田村神社に向かうのは迷うかも知れません。

というかあまり通行者はいないと思わせるくらいに道は荒れています。夏期は近寄る人はいないでしょうね。私の歩いた東回りのコースで行けば田村神社までは車で行くこともできました。通常はここから来た道を引き返すのでしょう。

 

途中あった「ホテル岩水寺」廃屋はイイ味出しています。

若いころはこういう場所に「探検」に行くというのが習いでした。

しかしよくもまぁ、「今時そのまま」になっていることに驚きました。こういう場所は犯罪の温床になりかねませんからね。

(相良にもたくさんありました・・・)

 

駐車場に戻って、こちらのお寺の整備された墓域へ。

駐車場のスグ東側の丘の上に五輪塔が二基(最後の画像4枚)。

二基とも時代は鎌倉時代のお墨付きが市の教育委員会から出ているようです。

 

左の小さ目の五輪塔は「宝珠―空輪」の上部が欠けて、本来の花崗岩の「白地にゴマ」の部分が露出していました。

倒れたか落ちたか、ぶつけたかそうは時間の経過を感じません。

惜しいですね。その欠けが無かったら完璧な姿でした。

 

右側の大きい五輪塔(凝灰岩製-比較的もろい)は面白いですよ。

下から地・水・火までがオリジナル。よく見れば上部の風・空の部分の色が違います。目をこすってよく見ればこの風・空にあるのは別の一体型五輪塔。

上部二輪が欠落した段階でどちらかの時点で体裁を整えたということですね。もっともっと、よく見ればその一体型の五輪塔の風・空も何やら色が違います。

 

五輪塔でも宝篋印塔でも頭の部分が欠落することが多いですが、これは地震崩落か人為的なミス、故意の3点が因。

特に故意にも二通りあって廃仏毀釈の暴走と「墓石に勝負運」という民間信仰があり、博徒などがお守りとして「お持ち帰り」したということもあります。

また、先日記した菅沼定村の墓のように縁者が持ち帰ることもあったでしょう。

 

どちらにしろこの墓たちは、当初あった場所から移動され、整備された墓域にあります。詳細は不詳です。