ここにもあった「姥懐」の名称 長篠の姥懐砦

「除夕の鐘!!」連発の編集には照れましたが、昨日放映されましたNHK「所さん!・・・」の映像にはまずまずの安堵。というか有り難い構成に感謝しています。

境内の映像でたくさんの檀家さんの顔が映っていました。

スタッフの皆さん有難うございました。

 

さて、現代において、ほとんど全く耳にしなくなったというかその語を聞いた際に「えっ?」と聞き直すほど身近ではない語が標記の「姥」。

史料文書には散見できますが、日常会話ではあまり使いません。

 

箱根には「姥子」という地名がありました。「姥捨山」なる古地名も各地残っているようです。

また、ウバメガシという備長炭の材となる堅い木が以前いた横浜の会社の周囲を巡っていましたのでその「ウバ」という語にはまぁ親しみがありました。その木の若芽が老婆の目の如く褐色であることから命名されたと言いますね。

 

「姥」は上記の如くまた、その字の成り立ちのように「老婆」や「祖母」の意味がありますが、そのほか「乳母」という意があります。特に後者(乳母)の「姥」は乳母(うば)車なるものがあるように「子育て」に関わる女性のことを言います。

「実の母親の代わりに子育てを行う女性」ですね。

今では考えられないことですが、昔のやんごとなき人や、名だたる武門の人たちの奥さんは「子育て」などはしませんでした。

 

子供の世話などはすべて乳母(姥)の仕事であるのが当たり前、手など出すことはいけないこと。出すのは口だけですね。

よって子供は実の母親よりも乳母になつき気味になるのは当たり前。「姥捨て」の如く祖母・老母を意する以外の「姥」の語には名家に生まれた者ならば、幼き頃の思い出を彷彿させるものでしょう。その思い出とは、「何よりも温かくてゆったりと安全に眠れる場所」・・・「姥が懐」(うばがふところ)です。

「懐」<ふところ>は「懐く」<なつく>とも言いますね。

 

その意が転じて、静かで安定、温かく穏やかをイメージする場所を「姥が懐」と呼び、古地名として残っているのだと思います。

 

相良の近くには私の知る限り2か所あってかつてブログに記しています。私には姥がいず、母親に育てられていますが、なにかその語にはほっこりとさせられ、その場所の雰囲気を味わいたくなりますね。

 

一つ目が高天神城の目と鼻の先、武田勝頼が塩買坂から菊川下流の国安まで一旦南下して渡河したのち中村を経ておそるおそる陣を伸ばした惣勢山と安威砦に繋がる台地の中間あたり、北風を遮るように囲う場所を「姥懐」と呼んでいたといいます。

二つ目が横須賀城北の撰要寺の西側の低湿地帯ですね。

当地が隆起する以前の船溜まりの跡です。

風の強い遠州灘を行き来する舟の避難地でした(場所はここ)。

 

そして三つ目。

長篠城包囲網として勝頼は自身の本陣とは別に武田信実を中心に長篠城の要害性のある南方向側に対峙する尾根伝いの山系に五つの砦を作ります。

 

長篠の武田五砦と呼びますが、その中の一つに「姥懐砦」(うばがふところとりで)という名称が。

ただし、その名のイメージとは違い、この砦ほか他の武田守備軍は酒井忠次率いる急襲部隊により壊滅させられています。

大雨の中に夜半から砦背後に回り込んでタイミングを待ったといいます。

 

以前城内に記されていた掲示板にその守備と勢力数が記してありましたので・・・

 

久間山(ひさまやま)砦

 和気善兵衛 大戸民部 倉賀野秀景 原胤成  300名

 野州浪人組 300余名

中山砦

 五味与惣兵衛 280名

 名和無理之助 飯尾助友・祐国 名和田晴継 240名

鳶が巣山砦

 武田信実 250名 小宮山信近 250名

姥懐砦

 三枝守友・守義・守光 草刈隼人助 宍戸大膳 350名

君が伏床砦

 和田信業 長竹昌基 反町大膳 300名

 

⑤画像、酒井忠次率いた武将の面々。

三州遠州の猛者たちの名が。