平地の城館 井伊城(根古屋)  本曲輪址に残る墓石

「フニャフニャグッズ」(昨日)について驚かされたのではありますが、今月5日に米国の精神医学の雑誌に発表された東北大学の論文の内容については、「やはり、そうでしょ・・」と自分の思っていた通り、それほどのショックはありませんでしたが、そういうことからその「フニャフニャ」に繋がっていると思うと、もはやここまで来ている状況は日本の国としての体裁の維持は近々破綻するのではないかとも思ったりします。

 

タイトルは「長時間のゲーム、子供の脳の発達や言語知能に悪影響の可能性」というものでした。

一定時間をおいての脳の発達状況を知能検査とMRI撮像で解析してデータを集めたそう。

研究グループでは「小児の長時間のゲームプレイで、脳の高次認知機能に関わる領域が影響をうけ、言語知能の低下と関連することを示唆する」としています。

 

大部分のオトナたちは自分がプレイして楽しみたいがためにゲーム機やソフトを導入し、その子供たちのプレイを容認してきたというのがこれまで。今はスマホを買い与え、子供たちは布団の中でコッソリゲームをしている時代。「発達期の小児」にゲームと端末は本当は「取り返しがつかないくらい」の病因ともいえる負の状況をはらんでいることを知らなくてはなりません。

 

さて、紛らわしい井伊の城山、井伊谷城の南麓の平地、「平城の方」の井伊城の「本丸跡」(昨日の掲示版)、ただし当時にその呼び名がされていたかどうかは分かりませんが、その推定地には墓が二基遺されています。

通称「井殿ノ塚」あるいは「籃塔(らんとう)ノ松」と呼ばているそうです。尚、この掲示板には「籃」の字が「濫」になっていますが、後者だと「乱れる、みだらな」になってしまいます。「籃」は竹で編んだカゴの意で、墳墓の形態でハウス型のものを

籃塔墓と言いますが、その籃の部分を古くから大きな松の木が墓石を守るように囲っていたのでしょう。それを譬えてそう呼んだのだと思います。

 

まず井伊家の家系図を引っ張り出して手元に置けば便利ですので①画像。

井伊家二十代「井伊直平」の嫡子二十一代「井伊直宗」の次男「井伊直満」とその弟「井伊直義(系図にはありません)」両名の墓です。

今川家に仕える井伊家の家督相続に絡んでの事件。「井伊直虎」が女城主として頭角を表さなければならないそのきっかけとなったものです。この件がなければ来年の大河ドラマのストーリーは無かったワケです。

 

兄の「井伊直宗」の嫡男で兄弟の甥にあたる「井伊直盛」に男子がいなかったため(女子の「井伊直虎」のみ)、「井伊直満」の子の「井伊直親」を養嗣子として入って家督を相続することとなりましたが、天文十三年(1544)、そのことを嫌う家臣の小野和泉守道高の讒言(「今川を裏切って武田に通じています」)があり、駿府今川義元はそれを信じ、二人を駿府に召喚して殺しています。

 

井伊家の「歴史は繰り返す」の悲劇はスグに訪れて、「井伊直満」の子の23代「井伊直親」は同様に殺されてしまいます。

今度は今川義元の家督を継いだ今川氏真でした。

養父で「井伊直虎」の父「井伊直盛」が桶狭間で今川義元とともに討死してしまい、後ろ盾不在の中二十八歳の時、先に今川義元に讒言した小野道高の子、小野道好の讒言(今度は松平元康~家康との内通の件)があって氏真にそれを疑われ駿府へ召喚、弁明に向かう途中、掛川にて朝比奈泰朝の手により殺されました。

 

結果的にその誅殺を止めることはできませんでしたが、新野左馬之助の妹が井伊直盛の室となって井伊直虎を生んでいるということもあり、新野家が今川氏真との中に入ってとりなしを行っています。そして、その際、「井伊直親」の嫡子の「虎松」(のちの24代「井伊直政」)も殺されそうになったところを新野左馬之助が匿い、絶体絶命の井伊家を救いその後の井伊家の繁栄と繋げたというのがこの井伊家にあったストーリーです。

 

墓域は「本丸」とは言いますがその表現は少々疑問。

場所は井伊谷城で記しました二宮神社方向から廻りこんで駐車場の途中にある晋光寺②の下の道直下③の林の中(場所はここ)。③と⑨の山が三岳城。⑧が井伊谷城。

龍潭寺の井伊家墓地のものは供養塔の類と考えれば、墓としての信憑性は此方の方が高いですね。