井平城の裏山に続く古道  天保期の道標 迷惑す

元亀三年12月22日は三方ケ原の戦い。

ちょうど22日は息子の冬休み突入ということもあって浜松の成瀬谷へ久々に参拝してそのまま息子を拾いに京都方面へ向かおうと予定していましたが、急な法事が入ってその安直な予定は一気に瓦解。

一応事情は先方にもお伝えしましたが先方都合で「その日以外は考えられない」ということでした。

京都のホテルに一泊のつもりでインターネット予約のクリック寸前でのことで何とかセーフ。

この時節は紅葉シーズンも終わって予約もカンタン、平日はねらい目だったのですが・・・十分に迷い、惑ったことは事実です。

 

以前にも記しましたが私はこういう人為的事情も、天候などの自然の事情も、「おまかせ」スタンスで「流されよう」と心掛けています。

要は如来さんからの「行くな」「動くな」のお達しと解釈しちまえば気がとてもラクですね。

自分の意思で無理な方向を選択すれば「ロクな事がない」ということは経験上ある意味理解しているつもりです。

 

さて、古道の辻に立っている道標というものは殊に味があっていいでいね。どちらかといえば「みちしるべ」読みが似合います。

「辻」は複数の道が交差する(クロスロード)いわゆる「迷惑」の場所。

この「迷惑」は今風、他人の振舞による反発的自己主張の風でなく字面の通り単純にお考えください。

ちなみに昔はその原因が他人、自己関わらずまた、現代のようにその語を受ける相手を叱責して吐き捨てるようないやらしい言葉ではなかったはず。現在の使用方法はオカシイですね。

私も本来の意で使用したくとも、それを聞く相手様が驚いてしまいますのでカンタンには口に出せませんね。

「甚だ迷惑しています・・・」。最大の謙譲と思っていますが。

 

こちらの辻(場所はここ)は二又の分岐でその手のタイプは「追分」とも呼びますが日本全国至るところにありますし地名にも残っています。各地元の通称は「ワカレ」といって色々な意味でその道の選択について考えるところがあります。

 

「機縁」という呼び方が仏教でありますが、この「分かれ-別れ」の辻が希望へのきっかけにもなったり絶望への道を進むことになったり、または本当の別離があるのかまたは次の「落ち合う場」(一本道)があって新しい出会いがあるのか・・・。

「道の選択」とは今、色々な場面で形容されますが、人生と言うスパンを生かされている身としては常々その「道」のワカレと「機縁」を感じないではいられませんね。

 

そのように常時「迷惑」しながらの日々を、すべてが機縁として考えていれば自然と「ありのまま」「無理しない」ということになります。

「無常」は常に人生というものと隣り合わせにあるのですから。

 

そこで道標の出現です。「案内」があることによって行くべき方向がハッキリしますのでこれほどの指針は無いですね。

道標という交通標識は石材が主流ですがカタチとしては色々なタイプがあります。古来から各地地元の有力者がその案内板の設置をしました。

木質でしたら数年で朽ちますので残りませんが石質ですと保存状態が良ければ数百年は立っていますね。ただし簡素なものですとそれ自体が土砂で埋もれて紛失したり、石質が脆ければ自然崩壊もしますので精々案内としてわかるものは江戸期のものが多いようです。それにしても長い時間、往来の人々に正確な方向性を提示したその石標の責任は重大だったはずです。

 

石標は井平城の裏山の谷沿いにあります。天保期(天保十二 1841)からこちらに立っていることがわかります。何代目かのものでしょうが歴史の重さまでも感じますね。

 

現在はこの山道を辿ってその各方向の示す場所に向かう人は皆無でしょう。キツネ・タヌキ・イノシシと遭遇するようです。

 

場所は「新東名浜松いなさ」を出て右折。伊平に至るより前になります。左側に標識があります①。②は逆方向から見た現代の標識。

昨日は「いだいら観音の里まつり」について触れましたが、この辺りは観音様が各所にいらっしゃるようでこの道を上っていけば仏坂十一面観音堂があります。

 

標識左方向の山吉田と鳳来寺そして右方向の渋川は上記地図に落としておきました。

 

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コメント: 4
  • #1

    クリクリ (火曜日, 22 12月 2015 00:36)

    浜松周辺は歴史的な遺構遺物を大切にしている感じがしますね
    それは文化水準の高さを表しているかもしれません。
    小笠掛川榛原はどうでしょうね。
    守るべきものをしっかり意識しないといけませんね。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 22 12月 2015)

    ありがとうございます。
    現在静岡県内でのその「文化」を守ろうとする意識は
    単純に「西高東低」に見受けられますね。
    沼津の東熊堂高尾山古墳について「ぶっ壊して道路にしちまえ」風の
    開発先行型の風潮はガッカリですね。
    保存維持におカネがかかりますので行政の余裕も感じられますが
    沼津の例は「人の心のさもしさ」をも感じてしまいます。
    何とかしっかりとした保存をして欲しいものです。
    中遠地区も人は今を生きるというか「食べる」に必死で、歴史的なものを
    大切に後世に伝えていくというスタンスに無いように感じます。
    コレは小中学校で地元の歴史を教師が教えないからだと思います。
    昔は郷土愛を育むためまずは地元の歴史を学んだものですが・・・
    歴史を知ることで一所懸命と人間処世というものを学べますので。

  • #3

    くりくり (水曜日, 23 12月 2015 00:50)

    反論したいのですが、その通りですね。
    私達の地区では山林はことごとく茶畑にしちゃってますからね。
    空中写真でも平らな丘陵はほとんど茶園にされて
    文化遺産どころか雑木林も急斜面にしか残っていません。
    小笠地区は古墳集中の地区ではったはずが甚だしく破壊されていった負の側面も見逃せません。
    歴史的な面だけでなく自然環境、特に生物多様性の面からもマイナスが多いのが実態でしょう。
    ・・・がんばります。

  • #4

    今井一光 (水曜日, 23 12月 2015 07:16)

    ありがとうございます。
    私が失礼な事を記したとすれば・・・
    ひょっとして学校関係のお仕事に関わっている(いた)方でしょうか?
    もしそうだとしたらごめんなさい。父親が古いカタチの教師あがりでしたので
    それへの短所ばかりが脳裏にこびりついて、つい同じハンコを押してしまいます。
    古墳開墾のお話もよく耳にしますが、コレは農家所有地にあるもので行政が監理しずらい
    ところもありますが、目をつぶって放置したという傾向がありますね。
    これも仕事をしていない監督者を考えてしまいます。