クロスロードとは粋な警告の標識  相良栄町

夏の様な陽射しでいてカラッとしたさわやかな好天が続きますが、小生はやるべきこと山積。まぁいろいろあります。

本堂裏のちょっとしたイタズラごと(クラック埋めと塗装)をしようと足場を適当に組んでからそろそろ2か月。まったく手つかずです。四の五の言っていないで体を動かそうという気持ちはあるものの、空回りと、物忘れで時間ばかりがいたずらにすぎて行きます。

 

昨日は障子貼りを真面目に着手。

と言っても別棟の会館の一部のみですが。

真面目にというのは「適当にのんびり少しづつ」やればイイと思って取り敢えず外して放置していたものを今回慌てて貼り始めたということです。

 

というのは一昨日、檀家さん最年長だったお婆さんが亡くなって、施主より「本堂にて葬儀を」と伝えられたからですね。

ここのところ葬儀は葬儀社ホールでの開式が定番で、拙寺会館は殆ど物置化、障子も張り替える気もおこらず、放置状態だったのです。今節の報恩講にて茶会を催す企画がありましたので重い腰をあげてたまたま取り外していたところでした。

 

障子は一旦外してから貼り直す方がラクなのですが、当家の殆どの障子は梁が落ちていて木々をかませてジャッキアップをしない限り外すことはできません。

そういう面倒さもあってなかなかヤル気がおこりませんでした。母親もずっと外す事は出来なかったことでしょうからイイ加減な重ね貼りし続けていましたので糊が固着してそれをキレイに取り除くことにも難儀しました。

 

先日は大正生まれの方の逝去にあたり、その時代について色々思ったものでしたが、今回のお婆さんの御年は何と数えの106歳。生れの年を伺って再度驚愕しましたが何と明治四十三年生まれです(1910年)。

ブログではもう明治生まれの方はいらっしゃらないくらいのことを記していましたがとんだ失念と失礼をしました。

 

勿論「老衰」が診断名で眠りながらそのまま逝ったようです。

まさに眠っている様。御内佛の前で横になってこちらを向いている様子は釈迦入滅の如しでした。

奇遇の縁に神妙になって感嘆した次第です。

その息子さんは既に他界していますが、その方の小粋な写真を見せて頂いた中、またも感激したものがありました(画像)。

 

相良は過疎に向かいつつありそうな平凡な町に成り下がっていますが、その頃の相良については、かなり活発で情報発信の場でもあったことをよく聞いています。

進駐軍が入っていたことなどは聞いた事がありませんが、踏切の交通標識が何と英語なのです。「クロスロード」と記されています。ウェスタンの映画のカットのように見えます。

 

私もおそらく友人の「墓道」も、その語は別の意味でも思いいる言葉ですね。

まずはエリック・クラプトンでしょうし、「十字路」「踏切」は遭遇と岐路という人生のターニングポイントを示唆しています。

 

大井川と堀野新田の23.9kmが廃止となったのは昭和43年の事。その2年後には最後まで残っていた大井川から新藤枝までが無くなって全線廃止になりますが画像は相良と新相良の丁度真中あたり。

今でいう「栄町の踏切」の前で撮影したもの(場所はここ)。

そうは言っても私もこちらに来てようやくその今はなき「踏切」について通じるようになったのですが、駿遠線は萩間川を超えてから中・小・高校のグラウンドを突っ切ってこちらの「交差点」を通過しました。

 

廃線の理由はトラック物流とバス路線の拡大に圧されたといいますが、あまりにのんびり走るのでタダ乗りが横行したとも。

時代が一緒としたら私も車両の後ろを追いかけて乗り込んでいたくちでしょうね。中高生ならやりたくなるのは頷けます。

 

まぁ私が周囲の地理を意識しだしたころには既にこの踏切はありませんでしたね。

あるのは「乗った」という記憶だけですが、今考えるとあそこに踏切があったことなどは何とも不思議な感覚でありますし、妙な鋭角な曲がり角があるのもそれで合点がいきます。

無理に今のバスターミナルの交差点付近にあった新相良駅方向に方向を変えていく場所でした。

 

午後9時から朝の6時までは「注意しろ」、操作係りが居ないということなのですが、事情通によればかなり年配の「おせい」さんというお婆さんが踏切の管理人として常駐していたそうです。のんびりした時代でした。画像等は山ほどありますのでご興味ある方は「相良 駿遠線」でクグってください。


「次は110歳が目標」などと軽々しく言ったことを思い出して、以前、貼りつけたと思いますが、「110番街交差点」

(Bobby Womack)を聞きたくなりました