中世領主の居館 方形100m×100m 頭陀寺松下屋敷

私は「いっしょけんめい」とよく口に出しますが「いっしょうけんめい」は絶対に使用しませんね。まずそれにはこだわりがありますので。

その「一所懸命」という語彙を使用し、「一所」の文字でなくてはならないというこだわりがある人は日本の歴史を少々でもかじった人でしょう。間違っても「一生」の方は使いませんね。

 

小和田先生にしろ、司馬遼太郎氏にしろ他の歴史学者の著述の中での「一所懸命」は当たり前のことです。

他方の字の使用は見たことがありませんしそれは意識的にであって、一方の使用については眼中にないでしょう。

私もそれら先達に倣ってその四文字熟語を使用する際は「場所」(一所)にこだわることを心掛けています。

歴史について記す者の最低限のマナーでもありましょうか。

 

その熟語はどちらも「命がけ、死にもの狂いで気張る」の意を端的に表していて小学生でも普通に、それも頻繁に使う慣れ親しんだ熟語ですが、「一生」の採用は如何にも「軽い」と思っています。まぁ今やどこでもかしこでも「一生」オンリーの様。

 

人の「一生」といえば「たかだか五十年乃至百年」(蓮如さん御文)でその人だけの「がんばり」が強調されているように感じますが、「一所」には「一家、一族、代々」で超長期の臭い―より壮大―が感じ取れます。

そして日本人の歴史を一言で言えば「土地への執着」以外の何ものでも無く、その土地(下地)と産物(上地)を巡っての争いが1600年頃、江戸幕府が始まるまで続いていたのです。

 

それまでの平安期の貴族・大寺社管理の荘園時代の土地の安定期が終焉し鎌倉に始まり戦国期に武士の権威の最高潮に至るまでその「一所」への思いは続きます。

鎌倉期における荘園の概念と土地所有の意味が武士の現地支配によって侵奪されていったという歴史です。

 

江戸が終わって明治となった途端にその「一所懸命」が政府主体で外部に向かって行ったのが日清・日露から始まって第一次・二次の世界大戦(15年戦争・太平洋戦争)ということです。

そういう意味からすると「一所」への望みはそれ相応のものであるのが良く、つくづく欲のままに過分を求めることは何に於いても失敗に繋がることを感じてしまいます。

 

どちらの字を使おうが自由で勝手ではありますが、私は「歴史」と「人間そのもの」を表現した「一所」の方の使用が普通だと思っています。

その「一所懸命」は鎌倉御家人が初代将軍の源頼朝が地方に居た配下武士団にお墨付きを与えた「本領安堵」と「新恩給与」というからスタートした思想と気概であることは御承知の通りで、歴史的には「一生」と比して約800年というその重みの違いがあるのです。

一世代限定の「気張り」も大いに大切ですが、自分が死んだあとに通じる世界観が表現できないのですね。

 

さて、近隣「一所懸命」は相良でいえば御家人相良氏から九州に下向した「新恩給与」があてはまるかと思いますが、菊川平尾の御家人内田氏でしたら高田屋敷の「本領安堵」石見国貞松郷と豊田郷の「新恩給与」があります。以前ブログで記した「毛利-もり」氏など顕著なところです。

 

新恩給与」の語は現代の旧軍人・未亡人、公務員へ支払われる「恩給」や一般的に使用される「給与」の元となったような語ですね。「本領」とは「源の領地」ですからそもそもは「新恩給与」との対でできた語のような気もします。

 

それらは鎌倉幕府将軍の方針意向へ功・手柄のあった御家人を各地にその褒美として「地頭」として配するという土地政策であったわけですが、その財源(土地)は滅ぼした平氏の旧領に謀叛人所領そして1221年の承久の変の勝利が大きいものがありました。それらによって自分の息のかかった御家人を「地頭」という公権限を持った役人として配することができたということです。承久の変では多く西国に点在し、没収した朝廷方の所領は3000か所に上ったといわれます。

 

新しく地頭として赴任した者が「新補地頭」、それ以前の地頭は「本補地頭」と呼ばれましたが、あくまでも地頭は幕府「補任」による土地管理が名目ですので「補」が付くようになっています。その「補」が時間とともに有耶無耶になって「所領」の「一円支配」という感覚に変化していったのでした。

 

特に「新補地頭」の出現によりそれ専用の規定ができますが(新補率法―しんぽりっぽう)その一番の着目点は

 

「田畠11町に当たり1町を荘園領主・国司へ年貢を納入しなくてもいい(地頭給田畠)とする」という項目です。

 

これは画期的な文言です。私が当時の地頭であったらわくわくするようなお墨付きです。あくまでも「補任」として出向き名目はただの土地の現地管理人、現場監督の身が所有支配を主張できるというのです。その目の前に吊るされた人参のために奉公もすれば、地元の開拓開発、何より収穫向上のために励もうというものです。

 

私は本格的「一所懸命」の始まりはこの「新補率法」の規定に始まったと思っていますが、着目点はまだあります。

「1町」とはだいたい100m×100mですが、御家人、地頭から始まった国人層の城館の広さはそれに近い四角形であるというのが通説。今のところ菊川内田氏館跡の広さは東西93m×70mというのが確認済みのところですが、他所では日本全国その四角形をイメージしていただければいいのかと思っています。


その館敷地周囲に自然の河川を堀に見立てたり、土塁を廻らせて防御性を高めていったものが室町前期までにありがちな地頭出身国人層の城館のスタンダードだったと思います。

それは農耕稲作の土地管理と中心であるという「本郷」「市場」に「田中」などの地名や姓に残っていると思います。

 

藤枝の湿地帯にあって稲作(田園)と切っても切れない場所にある田中城(またはこちら)などは、そのものズバリですが先日記した頭陀寺城松下氏城館は田圃の中心にあったことから田中屋敷とも呼ばれていたそう。

 

その頭陀寺城松下屋敷も漏れなく「100m×100m」の型に反せぬ遺構と城館としての形式が広く認められている場所でもあります。

再来年の大河ドラマ「井伊直虎」には遠州国人衆の城館が各各再現されるでしょうが、時代考証とそのスケールの描かれ方も大いに興味が湧くところです。

今川史が専門の小和田先生がその考証を担うことは大いに考えられ、一層の楽しみとなります。

 

館跡は今の頭陀寺第一公園辺り(場所はここ)。現頭陀寺から100m程度南側にあります。

⑥が頭陀寺から見た松下館跡(公園)方向。⑦が館跡(公園)から見た頭陀寺。

⑧が今年開催された頭陀寺城松下館の現地説明会のパンフ。

私は行くことができませんでしたが、礎石と大量のかわらけの出土、そして焼土層の出現は興味深いところ。

付近は住宅地となっていてその外郭、関連施設に堀・土塁等の遺構まで調査に及ぶことは困難となっていますが、その主郭は国人領主の館のスタンダード「100m×100m」・・・「一町四方」は踏襲しているとのこと。