毛利-もり

進ムハ往生極楽        退クハ無間地獄
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毛利氏と言えば安芸に土着した国人で中国地方を覇し、本願寺と連携して信長に抗った元就の系統を真っ先に思い浮かべますがもともとは東国武士の出自です。

扇谷上杉氏当主、上杉定正の糟屋館に呼び出されて風呂場で騙し討ちにされた太田道灌の伊勢原について記しましたがそこから厚木寄りに一駅行くと小田急線愛甲石田があります。

大学生時代は相良から小田原に再び戻って小田急線小田原から1時間20分ほどの学校に通い(その後喜多見のアパートへ)、卒業後は毎日、町田までの通勤時間を過ごしましたがその愛甲石田は当時超ド田舎、知り合いも居なければまったく興味もなくまさに車中爆睡のエリアでした。その駅から2、3㎞ほど北に行ったところに「毛利」の地名があります。ここが鎌倉幕府初代別当、大江広元の所領、毛利庄です。

今でも「毛利」の地名は残っています。毛利台という地は東急不動産開発の新興分譲住宅地で本厚木駅からは少々遠いという難点がありましたが・・・

地所の名、「毛利」を名乗った四男の季光は承久の乱後に安芸吉田庄の地頭を命じられました。

大澤寺縁起に記した菊川内田の庄(高田屋敷) の内田家も同じく、承久の乱後の新補地頭として新地に赴きました。新しい所領を幕府に安堵され分家、本家が日本中に移っていった時代です。(相良氏発祥の相良長頼が遠州相良から人吉に移ったのはそれより以前のことです)

 仕事が無いので「寺で何か仕事を」という方が最近フラッと来て、伐採した木を下で片付ける仕事をしてもらっていましたが、聞くところによるとその人は派遣会社での面接で「名古屋に行ってくれ、滋賀に行ってくれ」をすべて断ったとのこと。新幹線飛ばせば数時間で行けてしまうご時世にもかかわらず何と贅沢なことでしょう。寺男の私の雑用、その日当は安いし疲労度満点で何より危険なのに・・・。心機一転、「いっちょうやってやるか」の心意気・・・、無いですね。

やはり当時の人々のバイタリティは計り知れない強さがありました。

さて、毛利に戻りますが、読みの「もうり」は近年になってからの呼名でもとより「もり」と読んでいました。

ブログにて記しました美濃・尾張の森家の流れに毛利家がありますがやはり当時は殆ど呼び名で「森も毛利」も「もり」と読ませて、字書の方はあとから付いてきたように思います。

しかし大江広元が京都から呼び寄せられる以前の愛甲郡毛利庄にはのちの織田家家臣の毛利、森の先祖である源家毛利のそれぞれの苗字が既にわかれていました。八幡太郎義家の七男義隆の長男、毛利治部丞と呼ばれた義広が毛利姓初代とすれば義広の甥である森頼定も毛利庄に因んで森(もり)を名乗り森一族の初代となっていると言われています。

中国以外の戦国期の有名どころでは毛利新助義勝が桶狭間で今川義元の首級をあげ、また大坂夏の陣では真田信繁と徳川軍布陣を中央突破して家康を追いつめた毛利勝永がいます。

尾張出身で毛利勝永の父、毛利勝信は秀吉の黄母衣七騎衆として歴戦した秀吉古参の家来、元は「森」を名乗っていたといいます。

 

画像は毛利水軍と呼ばれた長善寺黄旗組艦隊旗文言より真似て作った旗差です。他意はありません、敢えて言えば「心を強く持ち、日々努めて難題に向かおう」ということでしょうか。