播種の春~収穫の秋まで  暗黙の了解とはいうが

それまでの「兵」と「農」という職が分かれていなかった時代に信長が出てそれらを明確に線引きすることによって戦の方法を一変させました。

有事のみ領内百姓からの徴兵号令によって兵卒を集めて編成した軍というものから、各家の惣領にはこれまで通り家を継がせて農村主体の経営をさせて次男・三男は城下に集め直接配下に置いて「親衛隊」を作り、兵(つわもの)の専門軍団を構成していったという画期的な発想です。


「コメが無ければ喰えない」=「領内経営が立ち行かない」=「侵略の憂き目に」=「コメ作りにウェイトを置くは当然」という発想です。それをあっさりブチ壊したのでした。

百姓80:兵20くらいの領内構成を兵力を100にブチあげて尚且つ、百姓による農村経営を維持したままにするというやり方で、戦闘は「何時でもやりたい時に」できることになりました。

分業ですから自領の米の収穫は残してきた者たちに任せておけばいいわけですね。


また自分たちの兵糧は秋口であればあまり考えないでいいという利があります。相手領内の田畑から「収穫」してしまえばいいのですから。


勿論この「収穫」は収奪であり、鎌倉時代から権利関係の複雑さから「刈田」(刈畠)―「刈田狼藉」という実力行使がありましたが、これは権利関係として低順位の者の収穫実力行使、要は早い者勝ちです。

戦国期のそれは少々意味合いが違って「刈田」(刈畠)=①自軍の収穫②相手の収穫物の搾取による困窮・衰退狙いという戦略的なウエィトが高い面がありました。

城の攻め手が籠城軍を干乾しにするに、周囲の田畑を刈り取ったり、火をかけるなどは当たり前の事。


家康による高天神城の攻城では田畑に火をかけるなどしたため、城下土方の住民の多くは、この地を逃げるように離れ(逃散)ていましたね。

逃散とまでは行かない場合の農村の対策は早めに「刈納めて」おくこととなりますが、それも絶妙の対策にはならず、成熟前の刈り急ぎは「過分の損」を招くことは当然、何より「刈田」を期待して襲来した敵方は意気消沈することなく襲撃目標を「収穫物は各戸にある」を踏んで農村に襲い掛かり収奪し、火をかけたといいます。コメなどの収穫物を隠しきれたとしてもそこに子供や娘が居れば「乱取り」(奴隷狩り 勿論男も例外ではありません)となって悲惨さは輪を掛けて増長することになるのでした。


これら狼藉の数々は雑兵どもの嗜みであり、公然と行われていたようです。桶狭間で兵力差断トツの今川義元の敗戦について「乱取り状態急襲説」がありますが、これは「勝ち戦」と余裕をかましての油断ですね。周囲農村に分散した兵力の隙を突かれ主力の大将を守れなかったというものでした。


戦闘が始まればここでも「逃げるが勝ち」が常道であったことは言うまでもないこと。思うにあの時代の「飢餓」の理由を天変地異と戦乱と一言に言いますが、「戦乱」とはその刈田・乱取りとそれを逃れるために土地を捨てて逃散するというまでの最大ロスがあったのです。人災ということですね。

「播種の春~収穫の秋までは戦争をしない」が暗黙の了解があったのは「義」というものが通じる時代限定のことであって下剋上と食糧難の時代には通じなかったでしょう。

むしろ食糧難であるからこそ、相手の食糧事情を衝くように、田畑を襲うという「戦略」と捉えていたのです。

画像①は既出、乱暴狼藉の図。

②高天神城北西側「林の谷」方向。岡部・板倉の碑に向かう道。

③渡辺金太夫屋敷跡から見た高天神城。