当たり前の乱取り 乱暴 狼藉の無法地帯

戦闘時に攻め手雑兵たちによる乱暴、狼藉の類である「乱取り」は当然に「略奪行為」です。

しかし戦国期の侵略時における「乱取り」は「暗黙の了解」どころか「褒美」だったわけですね。

 

 他国との戦いを準備するに手付金的「前払い」の多少はあったにしろやはり戦闘参加者の一番の期待、戦勝の褒美は敵地での「取り放題」であったことはまず確かでしょう。

ただし大澤寺縁起にも記しましたが武田軍による遠州侵攻の際、相良の平田寺さんに、自軍に濫妨狼藉を禁ずる高札(乱取禁止令)を立てています。

これは事前の調略と地元協力者への配慮、そしてその後の支配権の安定を目論んでいたかと思います。

 

武田軍の良心的な戦闘時の配慮は例外的で、まず大抵は「乱取り」こそ最高の勝ち戦のご褒美、そして兵卒の楽しみだったことでしょう。

 

大将クラスでも「切取り次第」という戦前の論功行賞については良く聞く言葉で、相手方武将の調略も、「勝ったら○○を褒美とする」など、官位、領地について事前に「安堵」させることは戦意高揚のためによくあることでした。

 

近江滋賀郡と丹波の34万石を領していた明智光秀がそれらを召し上げられて中国毛利領「切取り次第」と信長に言われて「ブチ切れた」というのも本能寺に向かわせた理由の一つともなっています。

 

また、一説に桶狭間の今川敗戦の理由として、勝ち戦に調子に乗った義元配下の兵卒が付近里村への「乱取り」に夢中になって戦闘態勢が疎かになってしまったからとも言われています。勝ったと思わせ油断させたところを襲うのも戦の常套ですね。

 

「暴れるなら他所(よそ)へ行ってやってくれ」という台詞がありますね。「旅の恥はかき捨て」の意とは違いますが、自分たちの生活エリアから離れれば何をやってもイイという無法・無茶苦茶的感覚が「乱取り」でした。

 

戦時下の旧日本軍や、今の自衛隊もそうですが、戦国時代の各種戦争、合戦について研究したり実践シミュレーションしています。

戦時中に旧日本軍が東南アジアや中国に侵攻して戦線を拡大しすぎて破綻していきましたが、当初の軍首脳部の腹積もりとしては基本的に「現地調達」、殆ど「乱取り」だったわけです。

今、「そんな歴史無かった」こととしようとしている例のアレコレもその流れかと。

 

ところが自軍の兵卒や協力者に惜しみなく前金でしっかりと現金支給し、戦略的に「乱取りまがい」を計った武将がいます。

秀吉ですね。中国大返しの際の街道筋にカネをバラまかせて兵糧手配を行ったことは有名です。

 

兵糧攻めの際に事前に対象地域の米を高値で買い漁って食糧不足を助長させ城を飢餓状態に陥れて開城させた「鳥取城飢え殺し」。

その2年前の「三木城の干殺し」では、「乱取り」行為をしながら包囲した領民に追い込みを掛け城に籠城させる戦法を取りました。

 

ただでさえ「諸篭り(もろごもり)」(大垣城のおあむさん一家を見てもわかります)ですので城内は人で膨れ上がることになるわけですね。

人が増えれば必然的に食料の消費が増えるので、籠城が早く終わることになります。

秀吉の「戦わずして勝つ」は秀吉の集大成、小田原攻めでも実践されています。

城内籠城組の惨状は筆舌に尽し難いものがあったでしょう。

 

画像は黒田家所蔵、黒田長政が書かせた「大坂夏の陣図屏風左隻」の大坂市街乱暴狼藉の修羅場。

「乱取り」から免れたとしても戦乱のどさくさには、まずは追い剥ぎ、盗賊、落武者狩りが出現して身ぐるみ剥がされて殺されるという運命を辿ります。

女性・子供の人身売買もあったようです。

「落武者狩り」というイベントも日本的なのか弱い者いじめの元祖ともいっていい戦乱後の嗜みだったかも知れません。