観音寺城こそ冬期限定  布施淡路丸つづき

「草ボウボウ」だから山城歩きのオンシーズンは12月から精々3月あたりまで。広葉樹が葉を落し、夏草が枯れた頃ということになります。いよいよこれからです。

昨日は城内曲輪群の一つ、布施淡路丸について記しましたが、まったく親切とはいえないだらだらとした案内になっていました。本日はそれを補完すべく記させていただきます。

 

例の風邪については途中経過の対処を誤ったため1週間後の今、最悪期のピークを迎えているようです。治りかけても法務をこなしますので喉を休ませておく時間に恵まれなかったことも一因でしょう。ご自宅の御内佛前のお勤めは時間短めマスク着用でした。

そして昨日の本堂での法要でついに声がほとんど出なくなってしまいました。

予め昨晩のお取越しも順延いただいておりましたので只管静養。

今後は風邪を疑ったら、医師の元へまっしぐらに走っての対応を試してみます。

自然治癒に任せられない年の頃となったのでしょうね。

本日初めて葛根湯以外の風邪薬を飲みました。

 

あの観音寺城という近江の名城について、それも非地元でロクな知識もない私が語るなどおこがましい事ではありますが、これまでずっとそのお城の、さわりでもと思っていたものでした。

心身ともに弱まったとき何故か気持ちが「近江」になるということも。

 

この城の全容を把握する(自分の家の裏庭と思えるくらいまで)ことはまだ先のお話なのでしょうが、とりあえずさわりの部分です。

 

昨日も記した通り、登城コースの選択が重要な城で、五個荘交差点からのコースがおすすめです(昨日の航空図)  (場所はここ)。

安土城側のコース(画像①)は道もあまりよくなく、大雨が降れば通行止めになることもあるくらいです。

到着地点が観音正寺の下側駐車場になって左右に振れなくてはなりません。

 

五個荘側からの登城口は駐車場に車を停めてスグにあの布施淡路丸が一番最初に出迎えてくれます。

ただし、布施丸の案内にしろ曲輪への標識は殆ど「無い」に等しいのでこの城を訪れるには事前に縄張り図等を用意しておくことが肝心です。とにかく回数を重ねて「自分の城」としたいものです。それほど唸らせられる城です。

布施丸は判りにくいのですが通路上に標識があります。

 

途中色々な教訓染みた「成る程」と唸らせる言葉が記された標識が建てられていますが、それらに惑わされず何か最初に立っている標識を注意深く見てください。よく見れば3方向山側を向く矢印にははっきりと「淡路丸」(画像④)の文字が。

 

駐車場に車を置いて一番元気な状態に右手の山へ向かう細道を登ると曲輪の虎口が迎え入れてくれるでしょう。

布施淡路守は入道「布施公雄」といいますが、今の相良布施書店、当山総代の弟さんの名は「布施公男」さん。そういうこともあって布施淡路丸が一番親しみの湧く場所だったのです。

また布施公雄の子の公保の妻が蒲生賢秀の娘ですね。

蒲生家も東近江で布施家と同様に六角家家臣団の一画を占めていましたが、織田侵攻の際、六角家逃亡のあと日野に帰って最後まで交戦状態を持続しています。

有名な蒲生氏郷は織田家忠誠の証、いわゆる「人質」(賢秀の三男)。信長に親衛隊として仕込まれたのでした。

 

ちなみに道に戻って左側に方向に向かえば「目賀田の曲輪」となります。 

 

①布施淡路丸②目賀田摂津③大見付④伊庭⑤三国の間⑥沢田邸⑦楢崎邸⑧本丸⑨平井⑩落合⑪池田なお☆印あたりが「佐々木城」の石標です。繖山の三角点へ向かう位置にありました。

人気がないからといって石標を穿つ落書きの部類、くだらんことする輩もいるものです。

 

観音寺には今一つ着目したい名、沢田丸があります。

相良の澤田家は寺と同様、近江の出自ですので佐々木流が意識されます。その辺りの結びつきを念頭に入れて今後の東近江探索をしていきたいと思っています。