景色はいいが草ボウボウ 石垣と墓石  布施淡路丸

昨日は「草ボウボウ」の中の楽しみについて触れましたが、やはりその味わいは「無常」ですね。まるで芭蕉気取りですが・・・。

「草ボウボウ」の躰とは殆ど「無管理」という意。

あまり人に見向きもされない辺鄙な場所にあって案内など無かったりまず目立たないという宿命を負ったような地になくてはならないのです。

 

ではどちらが私のおすすめかといえば・・・、色々ありますが、やはり前述の通り、「兵どもが夢」にこだわりたいですからね。

観光地化していない、また観光地近くでもひっそりと隠れていてあたかも見捨てられたよう場所といえば・・・近江が大和あたりが思い浮かびますがその手の場所は探せば全国いたるところにあります。

 

では私の独断でそれを思いついたままにしるせば、標記「布施淡路丸」です。

周知の場所にあってまずまずの観光地ではありながら、それでいて近江周辺の皆さんを除いては、そうは行かれたことはない場所だと思います。

近江の山城のスケールの大きさについてかねてからその尊敬を込めて記していますが、近江の山城数ある中、屈指の観音寺城に配された無数の曲輪の中の1つです。

 

観音寺城といえば数ある合戦の歴史を抱える城でありながら、信長の「つるべ落とし」の如く敵方の城がするすると落ちて行き、「天下」が転がり込んでいくその最終章の端緒がこちらの城主六角義賢と息子の義治との交渉でした。

六角氏は同族間での仲が良くない一面がありますが元は鎌倉御家人佐々木系(佐々木道誉 「婆沙羅」)ですね。

六角を名のったのは京都の六角堂に屋敷があったためといわれます。観音寺城の旧名は「佐々木の六角」ということで佐々木城とも。

 

信長の目的は勿論「天下布武」ですが大義は「義昭の入洛」ですね。義昭に征夷大将軍職―将軍―を与えて自身がスポンサーとなる手はずです。

六角親子は当初の信長の丁重な姿勢を拒絶しつづけて戦闘と相成りますが、近隣の箕作城(航空図のB)が落城すると、まったくあっけないくらいに本城観音寺城から六角勢は逃走、無血開城になっています。

 

その言葉は「戦わず逃げる」ということですのでただその状況を知る限りにおいてはその城の「だらしなさ」のみが引き立たされてしまいますね。

しかし実はこの山城のスケールは「巨大」を思わせます。

山自体(繖山433m)が単立で高低差もかなりあります。

私もかつてルートを変えて途中まで車両を使用して登りましたが何しろ広すぎて位置等を把握するのも見て廻るに時間がかかるのです。

繖山は航空図のAになります。八幡山城や隣接している安土城と比してもおわかりいただけるかと。

 

ただしデカイだけで周囲が広いという山城の脆弱性を露呈させるのはまず対多勢力との籠城戦です。圧倒的多数での包囲ともなれば少々の山城の堅牢性など吹き飛んでしまいます。

それまでも案外脆い場面を露呈していました。


尻尾を巻いて逃散するほどに勝算ない相手の懐柔策に応じなかったとは愚かな事と思いますが、六角氏方には何か戦術があって急きょ変更をさせられたということ以外考えられませんね。

まぁあの場面は初めから義昭上洛の先鋒として片棒を担いでいた方が、後からの六角の存在感を期待するうえで面白かったと思います。

 

聖徳太子建立伝承の山岳寺院「観音寺」(現観音正寺)を発祥としていますので古くから無数の塔頭寺院を抱えいた風景を思い起こしますが、戦国期に城塞化するに至ってまるでそれらの子院を廃しての曲輪郡の設置だったのでしょうか。

信長は安土城の大手道脇に家臣団の屋敷を作りましたが、この観音寺の家臣団屋敷をそのまま城塞の一部の曲輪とした様子を真似たのかも知れません。

そもそも安土城下の楽市も石垣の城も観音寺城のそれを踏襲したもので、信長のオリジナルではなかったようですし。その意味では信長は六角氏に一目を置いての説得工作だったことが窺えます。

 

数ある観音寺城の曲輪の中で、私がその曲輪に着目するのは、布施氏の名がついているからです。

拙寺開祖の住まった場所は近江の武佐周辺でしたが、当地相良に参った同じ近江出身系布施家の発祥と言われていますので馴染みがあるのです。

布施家の本城は東近江にありましたが、惣領長子等がこの城に居たのでしょうね。

石垣と土塁と虎口、小さな山城の本丸を思わせる遺構が残っていますが、こちらを見逃す方が多いようで、かつて登城した様子をアップすることにしました。観音寺城は名城でありながら、上記の如く見どころでいえば壮観の一言で多様にありますので、長い間、ひょいと記すという気になれませんでした。

 

ちなみにあの安土・観音寺地区に居て真宗門徒はいかにも肩身が狭かったことが推されます。拙寺開祖今井権七らが近江に戻らず、遠州に流れた理由はそこにあったでしょう。

極端な真宗門徒嫌いの信長もそうですが、元から居た六角氏の在り方にも不審があったでしょう。

法華一揆の際、山科本願寺を焼き討ちした法華宗を支援したのは六角氏でしたからね。

信長上洛の際、信長を突っぱねた理由として三好三人衆や本願寺の後詰期待説が挙げられますがそれはあまりなかったのではないでしょうか。家の格式からしても守護代あがりの織田の先陣に立つことすら有り得なかったということもあったでしょう。

 

しかし本願寺方が過去のことを忘れて共通の敵となりうる信長戦に統一戦線を張るということを思量したとしても六角氏にはそれをさせない変なプライドのようなものがあったかもしれませんね。そういった反信長の機運が一枚板に成れなかったのも信長の進行に拍車をかけたのでした。

戦わずに逃げた六角氏に対し、本願寺は11年も信長を敵にまわして石山本願寺に籠城し、戦い続けたのですからね。

不信の家臣団と仏法の堅持信心という抱えた目的の違いということもありましたが城は堅牢山城より河川湿地を巧みに利した平山城の方が耐久性があるような気があらためてしました。

 

淡路丸は城の北東方向に出張った先端にあって眺望が効きます。ここの丸につきものですが、廃城以降、地元の墓地と化していて、草むらの石垣や土塁の脇にこの地方独特の石仏が転がるように散在しています。

明日以降各曲輪の位置を概略まとめてみようと思います。