木下藤吉郎と松平元康をあらためて思う

家系図や出自についてまったく意に介せずむしろ下賤であることを踏み台にして、個人の才覚+幸運によって天下を勝ち獲た人が木下藤吉郎(秀吉)ですね。

何しろ百姓からの天下統一の立志伝などそうあるものではありません。その意では稀な人。

 

ただ幸運というと語弊がありますので付け加えれば、仏教的に事物の進行は100%「因果の法則」によるといいますので、大きな変化の「機会」に度々と恵まれた奇特な人ということでしょうか。一言で言えば「たまたまボスと時流とタイミングのすべてがハマった」結果だったということでしょう。選択の妙もあります。

 

しかし「無常」はこの世の「常」、刹那の「勝」を得た者も「家」とか「一統」と言う観点からすれば大いなる「負」を後世に教えた人でもありました。

それが「秀吉になってはダメ」の教訓でした。

 

その滅亡はそれでいて「いつかは自分も死ぬ」ということ、真宗でいえば「後生の一大事」を自らの限りない欲望、煩悩とに走り、後継者を育てることが出来ず、周囲を翻弄させるのみであって、ただ時間を浪費したことによる咎(因果)といったら可哀そうではありますが、やはり突然に転がり込んできたビッグチャンスの真の生かし方を知らなかったというのも事実でしょうね。

もう一度言いますが仏教的視点「足るを知る」を知らなかった人でした。

 

秀頼のバックで出張りすぎた感のある淀殿も場の空気を読んで、謹むべきところはそうすることが肝心でしたね。

一大名として徳川配下となることへの屈辱感ばかりに腹を立てて先鋭化、それでいて感情論ばかりの無策はいただけませんでした。滅ぶべくして滅んだわけですね。

 

一人の人間の「死」というものに「儚さと無常」を感じますがあの秀吉の死にはあの時日本中が安堵したことでしょう。

あのまま大陸へ向かって「個の夢」の実現のための大陸侵攻を続けさせられていたとしたら日本の国の体力はもたなかったでしょう。当時の「大迷惑」の大元でした。

その弱体化はいずれは大きなしっぺ返しに繋がり、下手をすれば逆に日本国中は大陸から蹂躙されて文化というものなど無くなっていたかも知れません。

そうそうは例の「神風」など吹くものではないですからね。

 

松平元康(家康)についても遡れば元々の出自は大したものではなかった(松平親氏 時宗の僧、乞食坊主の徳阿弥)といいますが、そこから家康に至るまでの「家」というものの成立、家臣団との切磋琢磨しての成長とその組織の充実は秀吉の抱えたものとは本質的に差がありました。

藤吉郎のトントン拍子に成り上がった一代での出世、勝ち得た権勢とカネにモノを言わせての「政」(まつりごと)は所詮は破綻の道以外の何ものでもなかったわけです。

 

たまたま実力を見出して引き立てた「子飼い」の集団と代々の家中伝来の結束のうえに育てられた者たち(三河武士団)という家臣団組織の決定的な違いがそこにありました。


交渉力(人たらし)・土地(領地)・カネ(黄金)・モノ(茶道具)による主従関係と結束は一時の堅さを見せるものの、その個が死すれば簡単に瓦解したということです。「人たらし」の交渉力も当人がいなくなれば口約束から起請文にいたるまで無意味に等しいということですね。

 

家康のうまさというものはその信長・秀吉に無い、あるいは自滅する如く足元を掬われていったその要因を分析しつつ、イイ事は頂戴し、マイナス要因は自分の糧として立ち回った結果が15代にも続く徳川政権と結実したのでした。

間違っても「外」に出ようなど思わず、国内限定でついてきた富のみに留まったことが長期安定に繋がったのですね。

 

結果から見て思う「家康の判断ミス」について記すとしたら、「外様大名こそ近くに置くべきだった」のかと思います。

毛利と島津両家をあげて記せば関ヶ原以後、改易可能な状況まで追い詰めた彼ら外様大名を温情で残存させたこともそうですが、彼らを江戸から離れた「遠国」に放置したままにしたことですね。

 

臭い物に蓋をするというか、将来反対勢力になりうることが予想され(その予想は大当たり)、都合の良くない彼らを西国、一つは本州の最西端、もう一つは九州南端と最果ての地に置き続けたのでした

皮肉にも新しい技術や幕府を脅かす思想は鎖国と雖も西国が窓口になってその導入や発想の転換に政策担当者のいる中心、江戸へ入るにタイムラグが発生しました。

 

私は、反対勢力への警戒はそれを外に放置して自由にさせるよりも、むしろ関東周辺に置いて、譜代で囲い込むという方法で弱体化させ折を見て改易されるくらいの「虎視眈々」の管理が必要だったと思っています。

関ヶ原で命拾いさせた毛利と島津(家臣団とその土壌)が主体になって明治政府を作ったという事実を見れば、そこのところ徳川方視点に立てば誰が見ても明白でありましょう。結果論ではありますが。

 

私の教訓としては、その外様の不穏の様を「面倒な事、嫌いなこと、やりたくないこと」に置き換えて、「離れた場所に放置せず、自分の近く、脇に置いて早々に対応する」ということです。

安穏に座する事なく常に自分の尻に火がついている(火宅の人)くらいの状況にしてケアすることが一番いいのでしょうね。

宗旨的「火宅」をいえば、人はその火が自らに既にかかっていることすら「気づかない」でいるということなのですが。

 

ちなみに国会の現政権ブレーンはそこのところを研究している様子。身内ながら将来の反対勢力になりうる芽を現組織内への取り込みを計って役職を与え、自由に動かせないよう図っているように感じます。まぁそれもただの「個」のレベルですが。

 

画像①は洛中洛外図屏風の豊国社と方広寺大仏殿の図。

③②が方広寺の梵鐘。方広寺鐘銘事件でお馴染み、このブログでもおそらく3回目の画像。②の「国家安康」と「君臣豊楽」がしっかりと読み取れます。

これまでうまい具合にピントが合っていませんでしたが、先日のお散歩の際、ようやくまともな画像が撮れました。

 

よく言われるケチをつけたのつけられたののお話のレベルではなく、この文字を起案作成し「OK」を出した家臣団とこの文言に不穏を見出した家臣団の違いが「藤吉郎と元康」の「家」の有無の差に出たともいいます。


要はあのピリピリと緊迫した状況の中、のほほんと無配慮な文言を「これで良し」と「GOサイン」を出してしまう急造の家臣団と古くから主家を守り盛り立てること、脇を固めるための家に生まれ、それを使命として家を継いだ各家惣領たちの、心底からの忠義との違いがあったのでは・・・。

「あげ足取り」であるといえどもそれを主眼に置いて攻めれば大いに致命的な攻撃材料となることを確信し、それをすすめたという家康ブレーン、家臣団との差が出たということです。

 

私は梵鐘文言発注の責任者の豊臣方大坂に居て成り行きで家康方となった片桐且元は秀吉配下でも好感を持てる人だと思っていますが、片桐に少々その危機感があればその難癖の材料は無かったのかも知れません。


良かれと思ってしたことが主家滅亡に繋がったのですから彼の気持ちは尋常ではなかったことでしょう。

あの文言に関して言えばまずは「天下の徳川家に相談」という段取りを踏んでからが正解でしたね。少々端折りすぎました。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (月曜日, 02 11月 2015 09:39)

    遠州の中小武士について貴ブログ読ませていただいております。彼らと家康と何が違っていたか、うーん、結論からいうと分からないですね。自分がその時代にいて状況判断して生き抜けるか、永禄、元亀、天正の時代のどこでも10年間生きてみろといわれても、うーん、無理でしょう。生き残れない。 有名な黒沢映画で「乱」があります。親は子に安寧を願いますが、ばらばらになって戦い合う。人のよい殿は家臣の悪知恵を利用しますが、最後は猜疑し合ってもろともに滅んでいく。この構図は遠州の戦国時代となんら変わらないものですね。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 02 11月 2015 17:35)

    ありがとうございます。
    比較して「分からない」部分は同感です。同じ人間として考える事は同様で
    いつ滅んだとしても不思議はないというところですね。ただし家康は最後の最後まで生き残って
    天下を握ったわけです。幾度となく死を予感して、ギリギリのところで不思議な幸運をひきあてる。まず、すべてが変則するギアとそのタイミングがたまたま合致し逆流を掻い潜ってこれたのだと思います。三方原の信玄にしろ、本能寺の伊賀超えにしろ、小牧長久手の秀吉にしろ、関ヶ原にしろ家康の危機的状況の殆どが「結果オーライ」。
    ここまで幸運を引き寄せるということはやはり普通の武人ではなかったからだと考える他はありません。
    ただし性格的なものと時の運またはそれらの相乗については推測不能ですがただ「他と違うのでは・・・」と考えるに家康が引き継いだ三河松平家のそれまでの惣領と家臣団の結束に基づいたお膳立てというべき優位性を考えずにはいられません。