「献残屋」繁盛の特殊と田沼相良藩家法の欠落

相良の講習会での一コマというものは異例中の異例でしょうね。昨日記した田沼関連の講習会の出来事のことです。

叔父にその一部始終を話した中の私との共通見解は・・・、

質疑応答時間のピントの外れた「質問」というのはこの手の講演にはつき物で、必ずあって自身の勉強と知識を講師に「披露」するかのような、あたかも独善的とも思える方の登場は毎度の事。まぁ「やれやれ」と思って進行役か講師に任せておけばいいのですが、今回の罵声・恫喝の類、組事務所の手入れの如くのヤジの発生はこれまで体験したことはありませんでした。これを相良人の特性であると断じるのは時期尚早ではありますが、推測するに・・・

 

私としてはある意味新鮮でもあったのですが、一部の人たちからは講師に対して失礼であり地元として恥ずかしいという意見もありました。

叔父は「相良人」の気質は昔から結構荒いものがあると言っていましたが、これは農業100%ではないという地域性を挙げていました。

内陸性の人々の性質は穏やかな傾向にあるものですが、海洋性就労者が多く混在したうえ、商業取引へのウエィトの高かった城下町的地域性です。

 

そんな中、田沼治世崩壊による逆風(象徴であった相良城の破却破壊)、大地震による萩間川隆起による海運業の衰退というマイナス要因等に叩かれ揉まれて長期に渡って雌伏の時間を強いられたところに幕末、大政奉還後に駿遠に大挙流入した旧幕藩体制派の反発心~それが牧之原の茶業振興につながりましたが~などがミックスしたDNAが脈々と流れ、一見温和そうではあるが、ひとたびキレると常識では考えられないような荒々しい態度に変わるのだと、結論に至りました。

田沼藩御取潰し後、天領化した相良での一揆の頻発など顕著だったことなど当時の傾向としてこの辺りの人々の性質傾向を見る上で意外ではあったものですが、ここへ来て合点がいったような気がしました。

 

さて、標記「献残屋」は商いの町大坂はじめ京阪には見られず、江戸地区限定で繁盛した商売の体系です。

読んで字の如く「献上品の残り物、使わないもの」の買い取り、それを転売することを商いとしていました。新品の贈答品限定ですが今でいうリサイクルショップの走りです。

 

この形態の繁盛を見れば当時の物品贈答というものが如何に日常化していたかがわかります。

その物品贈答についてを「賄賂政治の横行」として松平定信の田沼憎し私怨が、田沼=賄賂として断罪粛清していったというところだったことはまず違いないでしょうね。

 

当時武家社会で何かを依頼したり挨拶に先方へ参る際には必ず手土産、贈答品を持って行くものですし、出入りの業者でも武家に取り入るにその手の物品の贈与は当然のならいでした。

今であっても手土産持参など当たり前のことです。

政治家に便宜を計ってもらうためにそれをすることは当然のことで、現在でも時々度を越した輩が挙げられていますね。現在は違法ですからそれも当たり前ですが・・・

 

ということで、老中にでもなろうものなら、その贈答品の数はおそらくあり余るほどになったことでしょう。それを買い取って転売することを生業とするなど目の付け所が凄いところ。

贈る側も市価より安くそちらで仕入れて贈り物にするということもあったそうです。当たり前ですが、そういう風潮を先読みした贈答側としては最初から「物から現金」という傾向が強まることにも繋がったでしょう。

 

献残屋は江戸期の自由闊達の雰囲気の中に発生した新商売だったのでした。その「自由」な雰囲気をぶち壊しにして思想統制まで行ったが松平であり、その進めた「質素倹約」という美辞は庶民文化はじめ幕藩の経済状態の衰微を招くことになりました。

 

藤田先生はコメ本位の武家社会にあって当時のコメ以外の物品のインフレは激しく、開墾とコメ増産に走るのみの幕藩体制は、コメが増えても資産は減るというジレンマに陥ることになったとのこと。

田沼が進めた商人からの課税システム「株仲間」や専売制を廃止したことは自らの首を絞めたということですね。

 

また、藤田先生による相良藩の問題点をあげるとすれば・・・

田沼家に家法が無かった点をあげていました。

①「なにとぞ諸事規矩を相立て、世上並に取締り出来いたし、家法よろしく相定めたく・・・」という語の直前に「後悔いたすことに候」(相良町史資料編 一 )と。

②「御取立ての家の儀に候えば、いずれも諸芸の心掛け未熟なりと他家の面々嘲り候ようにては、公儀に対し奉り相済まざることに候、武芸は勿論、学問などまで随分心掛け油断なきようにひとえに相頼み候ことに候」(藩の重責にある者の未熟さ)。

③スタッフに旗本家の家政や主人の用向きを務める「渡り用人」(文字通り旗本家を渡り歩いた)は多数いたが、井上寛司、三浦庄司らはもともと武士身分出身ではなかった。

 

実力のある者を階級を超えて取り立てることなど今でいえば、当たり前、普通の事ですが、他からの評価としては危うくみえる場合もあったでしょうし、武士世界にあって武家を軽んじるという方策には反発が起こったことは言うまでもないことですね。

発想が斬新であの時代には「新しすぎ」の感があり、大いに「危険」という雰囲気も醸し出していたのが田沼政治であったとも仰っていました。

 

画像はパネル紹介されていたものの一部。

②③は相良城図。文言から破却時のものと間違うところです。それとも現位置と同じ場所に大澤寺が記されていることは敷地が確定していたということでしょうか。

大澤寺が当地に移っての棟上げは1791年のことですから(破却は1788年)。また、「西尾」が「西屋」に見えますね。

④が拙寺本堂に吊り下げられている西尾氏経由で寄贈された櫓太鼓。私は名目上一旦西尾所有にしたのちに当山にやってきたことにしたと思っています。直接相良城から持ち出したと推測できますがそれは御法度、わざわざ横須賀に持って行ったものを再び相良に持参するとは思えません。今でいう現物移動無しの書面処理でしょう。

⑤は駿府城寛政図、昨日のつづき。左下の「他見禁ズ」が面白いところ。