藤田覚先生の田沼と島田工高生製作駿府城

先般お伝えした通り、東京から藤田覚先生をお迎えして「田沼」のさわりを。

先生は江戸期幕藩体制、三大改革に田沼時代が専門で、田沼研究の一人者。

特に田沼評価でとかく巷で言われていた、賄賂政治家としての「悪」なのか、清廉な「善」き政治家だったのかについては、どちらも根拠ないと一蹴。

善の方は悪を打ち消す極論であり最近の傾向の「悪ではなかった」を強調するために出てきたその性質でしたが、そもそも敢えて「善」を強調する根拠の記録は薄いとのこと。まあ対抗のための無理があったということでしょう。

 

では「悪」というものに関しては、これはもうご承知のことと思われますが、田沼亡き後に突如と発生した松平定信の改革の正当性の根拠としての一環ですので今更この「賄賂政治」だの宣う「お惚け」を語る人はいないでしょう。

 

さて、今回の市制10周年のイベントの目玉は本講習会ではありましたが、これから11月1日(日)まで催されますので覗きにきていただければ幸いです。

本年は家康400年ということもあり、また相良へも幾度か来られている家康の二局政治の本拠、駿府城に関しても資料を展示しています。

 

現在駿府ではその城の再建について盛り上げているようですが、島田工業高校の書生さん方が製作したその模型が展示されています。中々の出来栄えで、圧倒されましたが、その労力は大変だったと思われます。

脇には東急ハンズに並べられていたであろう模型も。

 

大日本報徳社所有の駿府城の図面は複写ですが、メリハリの利いたキレイな図面です。

演壇の後方にあステージの緞帳は狩野栄川院典信の筆の原画を元に仕立てたものです。

宝暦九年(1759)初めて相良藩内を巡視したときの図だそうですが、城内から今の大沢方向(旧園村)を見渡している図とのこと。

 

さて、本日一番驚いたこと。

それは史料館にはコピー機が無いということでした。

10年ほど前まではあったようですが、他の部署に持って行ったきりそのままとのこと。

必要な場合は別棟の2階まで行かなければならないそうです。

今回、受付で記名いただく用紙が足りなくなりそうな雰囲気でしたので会長の小澤さんが自ら走って行った後ろ姿に「?」と思い、学芸員さんに伺って判明いたしました。

 

史跡調査会はこの手の主催は初めてということで、皆さん動きが今一のよう。そもそも会員の皆さんそれぞれが「主導的」になって企画考察する側の人たちです。脇役が不在なのですね。そして会員の皆さんは定年後の方々ばかりで私が最年少です。

ということで急きょ私が受付係として入口に座りました。

 

ツナギを脱いで着替え、家を出る時、「ジャージはよしなさい」との指摘に「ハッ」と気づいてズボンに履き替えてきて安堵しました。

帰宅後『どちらにしろ「風呂屋の番台」だったのだろうよ』との指摘には多少図星であり苦笑した次第です。

「住職がこんなことやるの?」との声もちらほら。やる人が居ないのでアドリブだったのですが・・・

 

2つ目の驚きは、講演後の質疑応答。

当初は「ガラガラだったらどうしよう」という言葉もありましたがざっと120人はいらっしゃったかと思います。

コレはつき物ですが、またこの際には結構ありがちな少々ピントのズレた「質問になっていないお話」の手があって、場の空気が一気にキレてしまったのか、罵声とヤジが大きな声で飛び交ってしまいました。

 

テレビでよく見るような昔の株主総会の如くで、「歴史談義の場」とは思えないような張り詰めた空気になったということは残念です。歴史講義の聴衆者は「意外に短気」という傾向も判明し今後、こういう場で自分が袋叩きにならないよう注意しなくてはなりませんね。質問は「短くわかりやすく!!」コレ鉄則。

 

司会進行はKさんが張切ってやっていましたが、質問の主旨の違和感は誰もが感ずるところでしたので、早々に講師への礼儀という点も含めて助け舟を入れてあげれば良かったのですが。

進行役がマイクを持ったままで発言者に渡さなかったという点も皆の衆の「聞きにくさ」となってイライラ感が増幅したのでしょう。

 

発言した御当人もさぞかしショックを受けたことでしょうし気の毒でしたね。

最後になって後味の悪い場の雰囲気を作ってしまいました。

まぁ人をコントロールすることの難儀を知りました。

ああ、受付係で良かった。

夕刻にはお取越しがありましたので椅子の片づけをして早々に帰宅させていただきました。