ポジティブ思考も・・・彰義隊   大谷内龍五郎

大政奉還後の混乱は一言で戊辰戦争と呼ばれますが、もはやあの流れはどうにも止まらなかったことでしょう。

ただし蛤御門の変に際してあのとき幕府が長州征伐を徹底的に完遂していればまったく違った歴史があったのでしょうね。

絶対的な「大義・・・朝敵の討伐」がありましたから。

 

変の際、長州の敗走兵は東本願寺に火を放って逃走しますが、一部は西本願寺に隠れたともいいます。300年近く経たあの頃であっても「関ヶ原」の怨恨が引き継がれてたいたのではないかと思うところです

 

以来幕府忠義を貫いた臣下たちはそのタイミングを逸したことに対する苛立ちと焦燥感を抱いていたことは間違いありませんが既に後の祭り。

そして彼らが盛り立てる筈の徳川慶喜はさっさと大政奉還をしてしまい、新政府の指示を聞いて江戸を退去して蟄居の身と落ちます。

 

時代の流れは完全に「変化」でした。

そういう大きな流れに逆らうことは読み違いで、意気込みと気概だけの邁進は得策では無かったですね。

一番いけなかったのは当初の幕臣でのまとまりの中から「もはや内輪でドンパチをしている場合ではない」という穏健な意見が出た場合、即「裏切り者」と断罪し、抹殺していこうとする対新政府との徹底抗戦の意が強く押し切られようとする風潮でした。

 

将軍不在の江戸府中は当初はその「大義」を今一度、「彰(あきら)かに」というキャンペーンによって設立された「彰義隊」という集団によってガードされていました。

面白いのはその決起銘々の式が浅草東本願寺でされたということですね。

今は宗教法人上、京都の「東本願寺」(真宗本廟)とは別団体となりましたが、私の学生時代はまだ同じ「東本願寺」の別院で真宗の学院(専修学院)がありました。私は昼間の授業が終わると小田急-千代田線-銀座線と乗り継いで浅草田原町に1年間通いました。

 

東本願寺で組織された彰義隊の血気盛んに応じた幕府方シンパは徐々に増幅して広大な敷地のある寛永寺にベースを移します。要害性でいえば真っ平な市街地にある東本願寺から寛永寺を選択するのは妥当でしょう。

 

さて、佐賀藩独自の製造とも提供されたものとも説が分かれますが、高精度の大砲の導入により上野寛永寺の彰義隊は新政府軍に一蹴されてしまいます。

そこでその残党の一部はやはり慶喜が来た駿府に集まるのです。これは山岡鉄舟の説得があって、もはや「この時代の空気を読め」というものでした。中條らの下について牧之原開拓に力を注いで欲しいということです。

ところが彼らの過激な「彰義」の考え方はそのまま変わらずありつづけたようで、その彰義隊残党の頭、大谷内龍五郎幸重は勿論、「百姓はできない」という武闘派揃いでした。

もっとも大谷内は上野の合戦で両腕を負傷して、不自由の身になっていたので当然でしょう。

 

穏健化した同志の動きには元の同士は突飛な激情を誘発させ粛清へと導きました。方や「真面目に百姓として・・・」方や「もう一戦交えて」との対立のベースがある中で、彰義隊メンバーの斉藤金左衛門と上野岩太郎の両名が駿河沼津へ「就職先」が決まったことに対して大谷内の側近の「藤田と吉沢」の二人が「裏切りの成敗」として上記両名を闇討ちしたのちに出奔してしまいました。

 

殺された二人の遺族も牧之原に来ていて、怒りは頂点、当然にそれは藤田と吉沢に向かうはずなのですがもはや不在。

よって大谷内龍五郎に決闘を申し込んできたというわけです。

今でいう「管理者責任」ですね。

これは日本最後の仇討(仇討禁止令は出ています)と言われていますが、大谷内龍五郎はそもそも腕の不自由さによって竹刀も振れない始末です。

 

ここで彼ら二人と交えて切死にしても禍根を残すことになり、開拓地を想わぬ混乱状態に陥れることにもなりかねないと考えた彼は、自分が腹を切ることですべてを洗い流すという条件で自害します。出奔した2人の罪を一人背負いこんでその問題解決を試みたのでした。

 

彼が腹を切ったのがこちら初倉は岡田の医王寺(場所はここ)の本堂だったと。

介錯は斉藤金左衛門の息、源八郎、十七歳。一刀目失敗して大谷内の膝を切ってへたり込み、大谷内が「しっかりやれ」と励ましたとのこと(「上に立つ者の論理」より)。

 

興国寺城を出奔して大名を捨てた部下思いの天野康景とはまた違うところがありますが、こういった人たちの生き様を見ると今の「上に立つ」方々の「保身」の姿には呆れるばかりです。

 

大谷内龍五郎時世の句。

 

「むら雲に 月はかくれて ありしかど 

          今日はれて行く 死出の山みち」

 

画像⑥⑦は山門途中の墓石。