見あげれば真如の月 心洗われ 目出度き心地

午前の法事、施主宅の御内佛にて表紙が張り替えられて虫食いの目立つ御文を拝読したのち、ぺらぺらっと最後のページを見やれば「釋一如」さんの署名。

「一如」は当流東本願寺十六代の法主(1648~1700)です。

江戸期の1600年代を初期、1700年代を中期、1800年代を後期と呼ぶことがありますがギリギリ江戸初期のものと、「古さ」を感じました。

 

本願寺が発行する御文・御軸等には当代の法主の名が記されますのでその御文の経た時代というものが推測できますね。

ということでそちらのお宅に伝わっている御文は300年以上前のものということがわかります。

どおりで虫が食べた痕跡が深く刻まれていたということ、合点した次第でした。

 

午前中は小雨交じりでしたので、プレ名月は難しいかも・・・などと会話したばかり、しかしその日二度目の夕刻の法事の帰り途、海の方向を見上げれば、例のスーパー満月に1日足りない月がお出まししていました。

「今日はムリだろう」と諦めて、忘れかけていましたので少々感動。

 

午前の「一如」さんの次、次代の十七代目の法主は「釋真如」さん。実は「真如」といえば他に意味がありますね。

勿論仏語で、「本当の姿」です。法名らしいとてもイイ名です。

まずその「本当」=「真」は「我が心」に向かうというのがスジ。

そしてその「真如」は「望月」「満月」という明るさを誇る時期のその力を借りて現わされる「真如の月」という言葉があります。

 

これは真っ暗闇を我が心に譬え、そこに現われた明るい月(名月)が煩悩を照らし現し、なお覚醒できればそれらを洗い流すことができる、すべき・・・という示唆でしょう。

そして「月」を見た際に「そう思う」ことが日本人の文化なのです。「月を愛でる」ですね。

そう、機械的にスイッチが入るのです。

 

私の場合一旦はその功力によって多様な「垢」を洗い流すことが出来ても、再び心の中に積もり出しますので、いつもいつも「いってこい」の堂々巡り。

これを人は「反省しないよりはまし」とフォローしてくれますね。

 

さて、先日の蓮如さんの「」について(御文「二帖の六」)。

その際は守護・地頭の取扱い方(粗略にしない)について記しましたが、私自身の「世間の仁義」他、その前に記されていた事について、まったく「掟破り」だと反省しています。

 

★信心のとほりをもって 心底にをさめおきて

          他宗・他人に対して沙汰すべからず

★路次 大道われわれの在所なんどにても、

           あらはに 人をもはばからずこれを讃嘆すべからず

 

ですね。

 

この二点について「掟破り」と言われれば私は既に破門されても仕方がないかもしれません。

法話等で「真宗門徒の教え」を「沙汰」「讃嘆」になってしまっていることに気が付きます。

 

蓮如さんの「謹むべきことこそ当流の本」とされる趣旨はよくわかりますが、どうしてもこの地は遠州の端っこ、真宗門徒への理解度というか、他宗信者からの違和感が溢れる地で(大いなる勘違いの恐れ大)、自分的に自己というものを―特に髪の毛があって、あたかもコスプレ風(友人の「奥の墓道」談)の躰に対して―正当化しようとあまりに力が入って「宣伝」してしまうのです。 

そこにまた違和感を与えてしまっているということも分かっているのですがね。

時代的背景として「一揆に走る門徒衆への扇動」があってはならないという意もありますが、自画自賛はあまりカッコイイものではありません。

それは結果的に

 

★諸神 諸仏 菩薩をもおろそかにすべからず

 

にも抵触します。

 

とにもかくにも「真如の月」はあらためて私の暗い心を照らしてくれました。

そう、まぁるいお月様に遇えたらここぞとばかりに自分の心を開いてみたら・・・まず、そういう時間をとることをおすすめいたします。晴れた夜空の大きな月、本日は期待大です。

「朔」を除いて月を見かけたら「足元」(立ち位置と方向)も確認したいものです。