「男児当死中求生」 死中に生を求むべき

ド雨続きの中、昨晩20時20頃の地震。もう終わったと思っていた先日来の群発、震度1→震度2の次はやはり震度3でした。

今回は命拾いの感ありますが、だんだん強くなってきて気持ちが悪い思いをしました。不快感十分蔓延しています。

とりあえず台風18号をやり過ごしたいですね。

 

最近の天変地異とそれに伴ってやってくるであろう(原発も)災難について、良寛さんの言葉(遇う時は遇うがよろしい)を引き合いに出しては「冗談じゃあない」風のことを記していましたが、その根拠となる故事を挙げよといえば標記でしょうね。

『後漢書「公孫述伝」』から・・・今でも時折耳にする故事成語です。

 

「○○男児」等々の言葉は私自身あまり好きな言葉ではありませんし、今時「女子力」なる語がもてはやされ、実際に何をやっても男・女を分ける必要が無くなり、敢えて言えば女の強さが際立っている現代の日本では「男子たるもの」風の語彙は却って違和感ありありの語に成り果てました。

 

しかし、その風は幼少期教育の際、男の子へ叱咤する言葉としてついうっかりながら口に出してしまうことがあります。

これは女性蔑視の歴史を歩んだこの国に厳然と流れるDNAがあるからでしょう。

 

さて問題はその後の言葉、「死中に生を~」ですね。

良寛さんの言葉もこの言葉も坊さん好みの言葉ですが、私はこちらの方が好きです。

そもそも法話等でどちらの方をと考えれば「死を受け入れる」ことよりも「生を求める」ほうが断然「それらしい」のかと思います。

 

何よりもその意気というものは戦国武将必携の精神であって、死中にあってそれから逃れること、あるいは死ぬことがわかってもそれまでは徹底的に戦うという人間本来の「スペクタクル」に魅了されます。

 

大樹寺についても何度か記しましたが、そちらには永禄三年(1560)、17歳の若き日の家康が大高城を引き上げて失意のうちに菩提寺に入った際、先祖墓前の前で自刃するまでに落ち込んでいたとのお寺のお話があります。そのお寺の一番の「壮観」です。

 

家康にはその後も「自刃する寸前にまで至るほどの危機」だったという語りは枚挙に暇がありませんのでこれも「お話」の範囲だろうと私は解釈しています。

「劇的度」を上げるには聞く方には面白い演出でしょうから。

その家康が逃げ込んだ際、大樹寺の登誉上人という人がその「拙速」を宥めて、彼を守りきったというお話です。

そもそも「寺に籠って僧兵で固めた」と言っても、俄か砦の類。一斉に火矢をかけるなど本気で落そうと思えば、カンタンだったはず。

 

また文明七年(1475)に松平親忠が創建しその名を「大樹」としたというのも失礼ながら私は疑わしいのかとも思います。

「史実」といわれているものの信憑性ですね。

「大樹」とは唐名で「征夷大将軍」「幕府」の意。そうはお寺の名前としているところはありません。寺の名は地名か経典からというのが一般的ですし。

まさか将来その家からその人が出現することを予想して、それが大当たりしたということでしょうか?もしかして江戸期になってから銘々されたのでは?と。

そして菩提寺の名とはいえ、その名はいかにも室町幕府将軍に対して畏れ多すぎますが・・・。

「まったくの偶然でした」は絶対にあり得ない時代です。

またも下衆の勘繰りをしてしまいます。ごめんなさい。

 

画像はお馴染み征夷大将軍坂上田村麻呂が東征中に浜松に滞在したという伝承です。

江馬時成の墓がある白華寺。三方ケ原台地の東端、東名三方ケ原の南側で地盤良し、東区・南区は浸水地域ですがこちらは盤石、この辺りへの人口流入があって、浜松は人口動態をキープしているのだといいます。


時成の碑の対に「史跡俊光将軍誕生之旧蹟」とあります。こちらには田村麻呂の子、俊光将軍の誕生伝説があります。この伝承はこちらの界隈に諸処残っているようですが、上記(大樹寺の件)以上に伝承の域を出ていないかと。

 

こちらにそびえ立つは樹齢600年の杉。

すべてのことを「知っている」大先生です。