杉原山の麓の虚空蔵堂  今福丹波七人衆自害の地

永禄十一年(1568)信玄が駿河から氏真を追い払ったあと、夢にまで見た「海」を手に入れることになります。

甲斐、信濃は海洋資源の欠乏でたびたび経済封鎖のカード(塩止め)をちらつかされていましたし年下の氏真には実際にそれを実行されています。

弱体状況を見せつけて尚、守護家威風をチラつかせている今川への与力は親戚筋の北条くらいでかつての三国同盟などはもはや完全に崩壊していました。

その際は北条家と今川家が組んで武田いじめの「封鎖」をしました。

当時はまだ尾張織田と武田の同盟が生きている頃で、「敵に塩・・・」の如く日本海側からのルートもあったと聞きます。

よって完全封鎖に至らず塩止めの効果は殆ど無かったでしょう。

ただし信玄にとって氏真のそのやり方には相当腹が立ったことでしょう。

 

「それじゃあ、駿河を切り取ってやる」という気概が却って膨らんだという印象があります。怒涛の武田軍越境は氏真自らの出陣もあいまって一旦は由比の薩埵峠で喰いとめるも今川家臣団の内応の連鎖に今川軍は総崩れ、別働の先鋒、馬場信春は駿府背後の賤機山城を占拠したため、氏真は掛川に逃げ延びるほか方法は無かったのでした。

 

今川館は完膚無きまでに焼き払われて灰燼、武田軍本拠は江尻城に置いて、いよいよ念願の海賊水軍経営に乗り出そうと進んで行きます。

持舟城久能山城(または )等、駿河湾制圧の為の「武田水軍」の基地に仕立てていきます。

 

さて、久能寺(今の鉄舟寺)を東側の平地に移動させたことは先日記しました。

そのエリア、杉原山の麓は鉄舟寺の管理する「言いなり地蔵」なる祠がありますがもともとはこの辺りは清水本能寺の寺領だとか。

諏訪原城内茶畑に何の間違いか今も立ち続ける今福浄閑の墓がありますが、その今福家菩提寺が本能寺。

今福父子?は当初は諏訪原城に詰めていたと思われますがあの頃は久能城に居て徳川の手により包囲されます。

 

以前のブログでは久能山で「病死」と記しましたが本当のところよくわかりませんね。甲斐に脱出した説も。

自刃したとか、自刃も家康を取り逃がしての責任とか・・・後世になって「適当な事を記しているな」という感がありますし、子孫が続いているという件もあっていったい何が本当かわかりません。

 

上記言いなり地蔵を左に見てスグ正面のスロープを上がったところに虚空蔵堂があり、この地で今福主従七名が自刃したという伝承が(場所はここ)。

掲示板解説では家康探索の失態の責任のようなことが記されていますが、ここでもまた「家康の討ち取り損ね」話。逆に言えば家康の「幸運」度の掲示。本当にどこでもあるような気がします。

榛原の井戸、滝境城周辺、三方ケ原などなど家康の危機一髪話は結構ゴロゴロしています。大坂の陣、真田の起死回生の中央突破などもそうですね。まともに信じられる話は「三方ケ原」くらいのものでしょう。上記で唯一の敗け戦です。