「家康と本能寺」 武田家臣団今福家

標記タイトルは5月28日で静岡市清水のお寺さんで開催される講演のタイトルです。

そのタイトル「家康と本能寺」を見て、京都騒乱の知らせを受けた畿内緊迫の下、明智の手に討ち取られまいと、堺に居た家康が必死の伊賀越えにて岡崎に至ったこと、そして信長以降、台頭した秀吉との権力拮抗の駆け引きの件を思うのは歴史通としては当然でしょう。

最近は推理小説の如く「黒幕は誰だ」的な説が各方面から次々と出てきていますので、「どうやらその手の部類のもの」とも考えられるかも知れませんね。


ちなみに私の思う明智の離反は以前ブログでも記しましたように、明智家中の「対四国征伐への反発」でまとまったということで「決まり」と思っています。


実はこの講習会の会場が本能寺さん。勿論、京都の本能寺ではなく駿河は清水港近くにある本能寺。

そして家康が登場してくるのは、これも「よくある」駿遠の対武田戦の「家康危機一髪」系伝承はこの地に残っていますが、今川家を追い出して武田家が入ったそのあと、家康は武田掃討戦を展開した地域ということです。


特に清水の本能寺さんのある村松という場所は徳川時代から伝わるそのイメージとは違いますが久能山城の根古屋であったのでしょうね(場所はここ)。

武田方の城としては西を意識して清水の湾内に水軍を置くというスタイルです。これはイザというときには甲州方面へ逃亡を図ろうというもかも知れません。


武田が駿府を領有し、この城に武田方城代として入ったのが、あの諏訪原城の畑の中の墓の持ち主今福友清です。

あの墓は何かの間違いで建てられたものでしょう、今福一党は久能城に移っていましたね。


この地には今福家子孫本家?といわれる家まで残っています。

そして本能寺さんにはその今福家のご子孫がいらっしゃるお寺ですね。「今福家母屋の門」(蛙股に今福家の家紋「剣酢漿草」~けんかたばみ~の刻)と呼ばれるそうですが小和田先生の講習会チラシが貼ってありました。


その日には私も参上させていただこうと数日前に問い合わせたのではありますが、何せ気づくのが遅く、新聞掲載(4月)後数日で「あっという間に」定員一杯になったと断られてしまいました。内容も面白そうで少々残念。