被差別部落の発祥とは違うでしょう   河原者

梅雨明け3日目の相良は、天気予報では午後から雨。

天気図を見て「降るワケないじゃん」と言いながらゴミ捨て準備開始。昨日までとは違って雲は多めでしたが。

もし降られたら花ガラが濡れて面倒なことになりますから、一応予報に敬意を表して・・・。

ついでに境内のアジサイの処理。

伊豆の電気柵の事故の件、柵はアジサイを獣から守るためにあったそうですが、私はその花には未練はありません。あくまでもアレは梅雨限定の花。咲いている時はなるほど発色が鮮やかでキレイではありますが、梅雨が明けたからには容赦なく剪定します。炎天下に萎れたアジサイの花は見苦しいですからね。

 

予定の昼を過ぎてしまいましたが雨の感じは無し。

昼はパンで済まそうと小銭を握りしめて軽トラの荷台にゴミやら伐採した木々を摘んだままで向かうと店の方が「今日はそれでも過ごしやすいですね」と何気ない挨拶。

時々利用する店なのでてっきり私の事を知っている方と思っていましたが、「雨の予報が出ていますからね」と返すと・・・

「雨がイヤということは農家の方?」と。

「自分の事などそう知っている人はいないわな・・・」と思っていれば続けざまに「じゃあ大工さん?」・・・

 

ポロシャツに短パンとスニーカーの私はどう見ても仕事のスタイルではありませんし、積み荷をチラっと見てそう質問を投げかけたのでしょうが、私も面倒になって「まぁ色々ね」で終了。

「職業当てクイズ」は植木屋さんくらいが一番似合っていたのかも知れません。残念でした。

 

さて、どこかでも記していると思いますが、中世の洛中あたりの職業感だと思いますが「河原者」という言葉があります。

最近になって被差別民の蔑称であるとして放送禁止用語となっているようですが、史学の中で登場するその名称は、その風俗に関して、その名そのものを抹消するわけにはいかないでしょう。厳然と我が国史上に登場してくる人々ですから。

 

まあ差別用語だから「使用するのはいかがなものか」という意見もあるようです。しかしそれはあくまでもその語をそういう意味で使用する場合に限定されるべきであって、日本史に登場するその人々の役割等を紐解く意味では避けて通れない人たちですね。

 

特に浄土系、念仏系の坊さんの走りといわれる人々の出所かもしれませんし(乞食坊主)、足利義政時代の植木職人など権力者と対面するために名のった「善阿弥」等の「阿弥」付きの人々などもそうだと言われています。

演劇の発生も河原から始まった(お国)というのが通説(遊女出身説)で、江戸期に繁盛するようになった茶屋遊びや歌舞伎などもその元が河原であったということから、その役者の事を「河原乞食」なる蔑称で蔑まれることもありました。

この言葉はつい最近まで時折使用されていましたので、ごく若い人以外の方は御存知でしょう。

 

河原に住居を持つことに戸籍上どんな問題が起こるか私は知りませんが、昔から河原には税はかからないといいます。

先日記した「立売」の行商のベースもこういった河原に住まう人々だったかも知れませんね。

 

後付でいわゆる被差別部落民としてよくいわれている屠殺皮革の作業に河原の利便性は的確(水の使用)であるという見識が出来て、河原者=差別という風潮になったのでしょうか。

 

私の子供の頃にはまだ、大きな橋の下にはバラックが立ち並んでそちらに住まう人たちが大勢居ました。

天気の良い日に橋の欄干にズラっと布団が並べられていて、通行中つい子供心で「気持ちいい」などと言いながら仲間と顔をうずめた覚えがあります。

海岸にも小屋が並んでいて、煮炊きをする煙突から煙が立ちあがる様子は目に浮かびます。

 

50年も経っていない図でしたが考えてみれば、日本は目覚ましい繁栄の道を歩んだものです。そして、ひと昔前なら「芸人になる」など子供が口走りでもしたら親はぶん殴って蔵に閉じ込めて反省させたか、勘当したものです。

最近は親も子もこぞって子供を芸人にさせて一旗あげようという方向性はむしろ周囲から羨望に価することと変化してきていますので、庶民文化というものも変わるに変わったものです。

 

植木屋・大工・ペンキ屋何でもやります。①はキャットウォーク。8畳の居間周囲側壁はあんな感じ。ちょうど昨年生まれた四兄妹がコーナーに集まりました。三味線の皮を取ることはしません。⑤は「出雲の阿国」ウィキより。

 

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コメント: 2
  • #1

    Jin (木曜日, 25 2月 2016 15:15)

    人権研修の資料収集をしていて、閲覧させていただきました。
    被差別部落の起源説には、異民族起源説、宗教起源説、政治起源説があり、更に古代から中世以前の時期により諸説あって、それぞれ考証中で結論はまだ出ていないようです。

    中世の河原者の居住地と、近世の被差別民の居住地が重なる例が京都や奈良を中心に報告され、部落の起源論争の大きな焦点となり、これを理由に、部落の中世起源説を支持する人々もいる。
    という状況のようです。

    歴史的な発見が無い限り、結論を出すのは難しい気がします。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 25 2月 2016 21:07)

    他愛のない思い付きで記すブログにコメントまでいただきましてありがとうございます。
    おそらく被差別部落の起源については多種多様な歴史的要件が重なって、
    ハッキリとは断定することはできないと思います。
    歴史や民俗学を触るうえで必要不可欠な部分ですが、現社会の風潮もやっと
    そのくくりのような因習から脱却しようとしているところに
    学問以外のところでそれを持ち出すことは憚られるところがありますね。
    当地にもそのような地域は残っていますが、ここ数年、「こそこそ話」で聞くことさえ
    無くなりました。
    もはやタブーを超えて忘れ去られている事でもありました。