名家好きの家康 頭が良くて器量よし 英勝院 梶

日坂の川坂屋に「掛川偕楽園茶室」を寄進したという掛川藩7代目の最期の藩主太田資美の「太田」とは元はといえば家康の「名家好き」から。

「名家好き」は別に趣味的なことでもなくて理に叶う一面大いにありますね。ここでは断絶したり一旦滅亡した家を今一度引き立てるということを言います。

特に名家といわれる善政を行い庶民に慕われたような家をそのまま領主に置くということは領民にとってこれほどの安心はありません。政(まつりごと)は変化というものを一番に嫌いますからね。

相良藩が潰されたあと、代官たちが入れ替わりやってきたのは相良領民が荒れて一揆が頻発したからです。

 

特に信長あたりでは状況によってあるいは初期の頃は比較的柔軟でしたが、前支配者の一掃を図り、身内を入れて新体制を布すという傾向にありますので変化は絶大です。ということは不穏分子も大いに残存するということです。

ところが家康はそういったところをケアしていて信長に滅ぼされた武田家臣団を引き受け、秀吉に滅ぼされた北条家や今川家の面倒を見るなどしています。特に関東移封のあたりなど、「なるほどな」と思わせる名家を自分の許に置きます。

 

それが太田道灌資長の曾孫の子といわれる兄重正と妹於梶です

(異説あり)。

太田道灌といえば江戸城そして文武両道・領民に慕われる善政の人ですね。新しく関東に入ってこれからうまいことやっていくためには「その名」は必要不可欠でした。

 

於梶に家康が目を付けたのは彼女の才覚とキレ、そして美貌ですね。13歳頃から側に置いていたそうで、結局は家康の最後の子供(市姫)まで産んでいます。歳の差はなんと36歳。

於梶さんの凄いのは、関ヶ原と大坂の2回の戦に騎馬武者姿で出陣、家康に同行しているということ。

 

家康が没したあとは髪を落し、名を英勝院に。

英勝院の「勝」とは「梶」からといいます。参戦した戦いにはすべて「勝戦」と「縁起のイイ娘」が強調されたのでしょうね。

家光の時、鎌倉扇ヶ谷に寺地を拝領して英勝寺開祖。尼寺です

(場所はここ)。この地は太田道灌の屋敷跡といわれその裏地には道灌の首塚があります。

騙し討ちされた伊勢原から運ばれたのでしょうか。

 

彼女は太田資宗を養子にし、二代秀忠に出仕させてから譜代格の大名に。太田家中興の祖と言われる由縁です。その「太田」から七代目が掛川藩太田資美です。

 

下記画像は、息子に「祇園山鉾」の画像送れと連絡していたところ「土砂降りだよ」との連絡。関西地区酷いことになっているようです。