デザイン折衷案  秀吉か家康か・・観光の城大坂城

慶長五年(1605)から3年、德川家康の手の中に滑り込んだように思う征夷大将軍と徳川幕府のスタートが慶長八年のこと

自分の命終の前に絶対にやり遂げなければならないことといえば、大坂に尚鎮座する豊臣秀頼とそのとりまきの一掃。


家康が死すれば秀吉の死した後と同様に天下を二分した「関ヶ原」の如くの戦乱を惹起することは当然に頭に描いていたことでしょう。次代秀忠にはまだそれをコントロールできる力量を見出していなかったのでしょうが、何しろそれをやり遂げなければ「死んでも死にきれない」という強い気持ちがあったのでしょうね。

家康から見れば秀頼は孫娘(秀忠の子 千姫)ですから孫と同様。しかし放置できなかったのはとりまきに神輿に担ぎ上げられるという絵図を描いたということですね。あの時世では致し方無いことでしょう。

方広寺の難癖から始まって以来慶長二十年(1615)大坂夏の陣は前年の(冬の陣)に続いての陰湿でしつこい見え見えの豊臣家滅亡への誘導のラストを飾る家康がセッティングしたイベント。その本意を見抜けずに、淀殿が煽るプライドのみを意識して時代の流れを読み間違ってしまった大坂方はまるで今のギリシャのようです。

時代が違って今は相手を滅亡させることが本意にはありませんが、だからと言って「やり過ぎ」は禁物ですね。あの大統領は調子に乗り過ぎ、はしゃぎ過ぎの感が無きにしもあらず。

あれでは世界中の総スカンになりかねません。

まぁ私などギリシャ地中海のバカンスなど一生ご縁はありませんが、すでにあの国の唯一無二の産業である観光業も「信用」の毀損かあおりを受けてキャンセルが相次いでいるとのこと。


大坂は秀頼を持ち上げて一旗あげてやろうというとりまき連がバックヤードで蠢いていたという感もありますね。


さて大阪を象徴するあの城は秀吉の城ではないことは言わずもがな。燃えて無くなってしまっていますので。

徳川時代に入って建築されたお城でもありませんが、周囲の石垣は徳川時代の普請によるもの。

豊臣の焼けた城の跡を更地にして盛り土し、より拡幅した縄張に建てたのが徳川時代のもの。

「太閤様のお城」とはいうものの目に見える遺構は徳川時代のものと近年修復の手が入ったものばかり。

そして門徒の坊主としてはやはりこちらは石山本願寺跡ですね。


現状のものは耐震化された鉄筋コンクリートの博物館でお城のカタチをしているのみですね。先日のバス旅行での大阪城組の方たちに聞きましたが、「中国からの観光客だらけで行列」と異口同音。


城の外観は下層から四層までは徳川時代風の白漆喰壁にして五層上層が金箔が施された黒漆。あまりにもみんなに納得してもらうという玉虫色、少々苦笑い。


画像は雨確率の強い大阪行脚の図。

絵図は夏の陣図以降冬の陣図そして最後が豊臣時代の大坂城絵図。すべてウィキより。見どころとしては天守真裏に回って石垣のスグ下、秀頼と淀殿自刃の地の碑でしょうか。新しい石材ですが。