堺と双璧、国友鉄砲鍛治集団  司馬遼太郎の述懐

姉川流域といえば第一に古戦場を思いますがやはりその川の近くには日本史上、特筆すべき場所があります。

「国友」ですね。

先日も記しました三田村城からもそう離れた場所ではありません(場所はここ)。

姉川の豊富な水流を使った日本における工業団地の創始的な場所と言ってもいいでしょう。


我が国、高度成長期を通して河川のその流域に建てられた工業団地の造成とそれらへの水供給を大義名分に論拠なく造られた大小の堰やダム(土建行政)によってその自然の姿を失っていったという歴史があるわけですが、やはり「工業」の維持・発展において必要不可欠なアイテムは「水」であることは間違いないところですね。


この国友の地にはもともとは刀剣から農具等の金属加工を得意とする村落レベルでの鍛治集団が居たらしく、こちらに鉄砲が持ちこまれたのが戦国期、天文十三年(1544)というのが通説のようです。

以前、NHKの放送にて1543年以降の出来事に鉄砲を撃つ場面を挿入していたことに「ちゃちゃ」を入れましたが、これは私の高校日本史で教わった種子島への鉄炮伝来、すなわち天文十二年(1543)の記憶をベースに語ったことであり今となっては少々十分に有り得ることであり「大人は黙認するところ」だったと反省しています。


というのは鉄砲の伝来については教科書的には上記「種子島」でまぁ正解なのかも知れませんが、諸説混在しているということですね。

あの時代だと各地に外国船の渡来したという形跡はあって特に中国の明からの流入がすでに散見していたようです。

倭寇という日本を代表する海賊集団の活躍期とも重なって外からの略奪品、交易品の中、変わり種として珍重され、献上品として各地に既に出回っていたフシもあります。


どちらにせよ国友に鉄砲が入ってきたのは「種子島」の1年後ですから時間軸としては「教科書」通りであって整合しますが、そのような短期間に京都経由でもたらされるものかは少々疑問ではあります。

もっとも事前に鉄砲に対する知識が既にあって、この武器がいかに画期的であるかを見抜いていたところにたまたまデキのいい品物が入手できたという構図があったのかも知れません。


それにしても「イイ物ならコピーしちゃえ」という発想が凄いのです。イイ物以上にイイ品物を作ってしまう技術力です。以後その考えはずっと日本の「模倣技術」を育む基礎となって、技術大国のベースとなっていきました。まずは技術は模倣から始まるということも異論はありませんね。


まず本格的にこの地が欲しいと思ったのは信長でしょう。

長篠の伝説がありますように彼の目の付け所はシャープで「1に鉄砲、2に鉄砲そして3に鉄砲」というイメージまで残した人でした。その国友を子飼いの秀吉に治めさせたということもその「利益」を独占するがためでしたが、信長亡き後は当然に秀吉が代わってこの国友を発展させています。


家康の場合もここの技術は独占状態にしておかなくてはリスキーであることを承知していて、幕府直轄地、天領にした上で技術者の流出を防ぎ、江戸にも移住させています。

江戸期には戦乱は終了していましたのでこの地の繁栄は終わっていたということになりますが、堺と同等に信長-秀吉-家康という戦国の覇者に一目を置かれた場所でした。


よく聞く話ですが、鉄砲製作の過程で画期的な発明だと言われているのが「ネジ」ですね。私がお世話になったニッパツの関連会社にトープラという「+ネジ」の業界トップの会社がありますがその技術の大元がこちら国友だったということです。

金属同士の連結にこれまで通りの箍や釘、楔の類では衝撃でバラバラになってしまうというところからの技術革新でした。


さて、そのような歴史的背景のある場所にあの人が来ていないワケがありませんね。司馬遼太郎です。「街道をゆく」はお馴染みですが、その中の記述が現在の国友の資料館周辺に石標にしてあったりその足跡も窺い知ることができます。


それではその記述から・・・


国友鉄砲鍛治

「国友村に次郎助という鍛治がいた。年の頃はわからないが、若者のような気がする。

彼は螺子(ねじ)についてさまざまに想像し、試みに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、巻き溝つきのねじ形をとりだし、もう一度大根にねじ入れてみた。これによって雄ねじと雌ねじの理をさとり老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。

その名が「国友鉄炮記」にとどめられていることからみても、かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもえる。」


そして鉄砲が国友に入る経緯についての記述は


「薩摩の種子島に鉄砲が伝来するのは天文十一年(1543)八月である。ところが「国友鉄炮記」によると、伝来してわずか一ケ年で国友村で国産の二挺が完成した、という。信じがたいほどの早さだが、前後のことから考え合わせると、ほぼ本当のことのようにもおもえる。

「国友鉄炮記」によれば種子島の島主時尭はポルトガル人から得た鉄砲を島津義久にに贈った。もらった島津義久が、京の将軍足利義晴にこれを贈ったという。


その義晴が侍臣細川晴元に

―これをつくるよき鍛治はないか といって、さげわたした。

細川晴元が北近江の守護職である京極氏に相談すると

自分の領内に国友村というすぐれた鍛治村がある、と言い

天文十三年二月、モデル一挺をこの村にさげわたした。


一村の鍛治があつまってその仕掛けを見きわめ、完成したのが、わずか六カ月後の八月十二日だったそうである。」


司馬遼太郎 「街道をゆく」より



画像①NHK大河ドラマ『太閤記』の原作本、吉川英治「新書太閤記」より姉川の石碑。春の桜の季節でした。