詐術に長けて詐術を看破  そして死  竹中重矩

戦国物の時代劇や小説で「忍者」風の者が登場して暗躍させてそのストーリーの進行役を努めさせることはありがちなパターンです。無名の間者であって史実を曲げるものでなければ使いやすい脇役となりうるのです。

実際に極端に情報量の少ない時代にあってより正確な情報を得る事がいかに重要であることかが最優先課題であったことは言うまでもないことでどの家の主もその重要性は承知したくさんのアンテナを建てて、耳をすませていたはずです。

 

たとえば、「本能寺」。反転して洛中に進む明智光秀の心配事といえば「信長が本能寺に居る」という確約です。

もしかして信長がたまたま寺をお忍びで出て、遊び歩いたりしていることがあればまさに愚の骨頂。囲んだ寺に信長は不在など目も当てられません。

 

あの時(本能寺の変)は一定時間に逐一本能寺内の動きを光秀に知らせるために走るおそらく何人もの間者を仕立てていたと思います。

あの時ばかりは殆どライブに近い生の情報でなければまったく意味がないのでした。それでも本能寺後の焼け野原から信長の遺骸が発見されなかったことによって明智軍の疑心暗鬼と秀吉による信長生存デマの流布もあって、「天王山」は秀吉に軍配があがるという結果につながったというのが歴史です。

信長の桶狭間の際もそうですね。確実に義元がそこに居なくては無意味なただの斬りこみに終わるだけでした。

 

「情報こそ命」の時代に諜報、浸透戦術は重要視されそれに伴った破壊、暗殺活動のスペシャリストの育成は至上命題だったはずです。のちに伊賀・甲賀の特殊集団や雑賀の鉄砲プロをそのまま引き抜いて子飼いにするなどの方法も見られました。

 

以前にも記しましたが私の武士の感覚を一言で言えば・・・

「武士道とは死ぬこととみつけたり」(新渡戸稲造)などと言われていました。それを曲解した人たちの新解釈を以て戦時下の「特攻」を囃したのですが本来は「不正義の死」や「無駄死」を否定するものでしたね。

 

まあ、それはともかく私が記せば・・・「武士道とは卑怯道なり」。ただしこの「卑怯」は極論として記しましたが「英雄」と殆ど同様の語かと。

そしてこの場合、臆病という意は離れますので「非拠」「比興」という語源に近い語の方がいいかもしれません。

後ろ指を指されれば「卑怯」。仕業が爽快で周囲から拍手喝采されれば「英雄」です。

 

一方から見れば英雄、また一方から見れば卑怯なのです。

戦時中の日本の開戦方法はまず「奇襲」。

相手からすれば何とも卑怯な戦法です。「特攻」もしかり。

昔から日本には「夜討ち朝駆け」は伝統的戦法でしたし「捨て身の中央突破」など「体当たり戦法」は得意でした。

そういう考えが無い人たちにとっては何ともそれに「非拠」「比興」「卑怯」を感じたでしょうね。

 

さて、標記竹中重矩(しげのり)の父は竹中重元で兄が半兵衛ですね。ということで例の稲葉山城のトリックプレーではこの重矩が城内の病人役。

竹中家が人質として城に上げていた重矩が仮病を使い見舞いと称した一統が城を制圧したのでした。

兄半兵衛の智謀振りばかりが前面に押し出されて囃される稲葉山の件、この弟の独り芝居が演じられなかったとしたら無かったことでしょう。

 

そのような菩提山城竹中家で育てられたとあって重矩の武勇は意外な場所に残っています。

信長の誘惑に動じず斎藤家に稲葉山城を明渡したあと、近江浅井の客人扱いの居候時期を通し(ブログにて)、斉藤家が信長によって美濃を追われたあと信長配下として美濃に戻ります。

 

その後信長率いる姉川戦で対浅井の陣中、浅井の智将、遠藤直経の詐術を見破っています。浅井軍敗色濃厚の中、遠藤は起死回生の策略を実行します。

戦死した仲間の三田村左衛門の首を持ち、信長の陣に論功と称して向かって、敵の大将信長と刺し違えようという作戦です。

 

ところが信長の手前にて偶然にも旧知の重矩と出くわし計略は破綻。あえなく捕縛されて斬り捨てられています。

その遠藤直経は当所浅井長政が信長の妹のお市を娶った浅井―織田同盟の際、佐和山での饗応にて、長政に信長の騙し討ちを進言した人でもありました。

ただしその後は信長との同盟堅持派で、のちの朝倉同盟派とは相反しました。

浅井が信長との連携を維持できていれば、智将遠藤直経の生き方はもっと多様に展開したことでしょう。

 

その信長の危機一髪を救った男として竹中重矩の機転は賞賛されました。

そのようにクレバーな重矩の死は意外に呆気ないものがありました。本能寺で信長滅亡の報せが舞い込んだ美濃城下は、箍(たが)が外れた如く一時的に騒乱状態になっていますが、そのどさくさで発生した土一揆の中、戦死してしまいました。

 

「非拠」「比興」の名だたる名将たちもちょっとした運命のいたずらに死して行ったのでした。

私も正攻法は好きではありませんのでドッジボールや「めちゃぶつけ」などのゲームなど「不意打ち、背後から」は上得意でした。

 

画像は竹中重矩(久作)の墓。こちらも禅幢寺の墓地です。

最後の画像が菩提山の大手側登城口、禅幢寺の裏手、八幡神社の鳥居。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    金尾文正 (水曜日, 08 1月 2020 20:52)

    はじめまして。

    私は、金尾家6代目の者です。
    金尾家の過去帳には、下記のとおり記されています。
    「初代治郎兵衛は但馬国(兵庫県)鐘尾村の出身で竹中姓であったが妻の家系とが不釣り合の為西矢家(表=元庄屋)の世話で当地(津山市加茂町物見)に定住す。但馬国鐘尾村出身であったため「金尾」姓を名乗る。」

    そして、過日当該鐘尾村(現新温泉町鐘尾)の元庄屋の竹中家を訪問してこの話を聞いたところ、17代目当主が語るところによれば、
    「我家は、竹中半兵衛の弟・久作の流れです。久作が、秀吉の家来として追随していたが、面倒臭くなり前線から離れてこの地に住み着いた。」
    ということであった。

    それ以来、久作に関する資料を漁るものの有力な記事を見いだせないでいたが、今日に至り当サイトに遭遇した。

    つきましては、前出の竹中家当主の話の真偽について、何らかのことが分かりますれば、ご教授願いたい。

    不躾、乱文にて恐縮ですが、よろしくお願いします。

    令和2年1月8日
    岡山県津山市加茂町物見172
    金尾文正
    ℡ 090-4140-1512

  • #2

    今井一光 (木曜日, 09 1月 2020 00:18)

    ありがとうございます。
    竹中半兵衛は勿論、竹中家は真宗門徒のお寺(岐阜県垂井町明泉寺)とのつながりもあって私としても親しみがありまた、その半兵衛の頭のキレに憧れをも感じています。
    竹中家の武勇伝は後世語られつづけられていますので、一般的な伝承を記させていただきましたが、気になったのは半兵衛の弟久作の件、何かの歴史的混同があったのかも知れませんが表記竹中重矩かとも思えます。
    その他弟たちの存在も考えられますが、それら含め当時の動向について不明です。
    ただし歴史というものはある時何かの発見というものがつきもので思わぬ形でわからなかったことが判明することも多々あります。
    アンテナを張り続けかつ、伝承と古文書をあたって「待つ」しかないでしょうね。
    あとそれから恐縮です、個人情報をお記しになられましたが、とりあえずそのままにします。もし不都合がありましたらお知らせください。削除させていただきます。