「大坂」は間違いないところ? ブラタモ

以前ブログのどこかで「大」と「小」は語源が同じと記したことがありました。たまたま物の「大きい・小さい」を形容する言葉があって特に紛らわしいのですが、現在伝わる語の中で案外接頭語としての「お」であったのでは?・・・という地名、苗字があります。

たまたま「大」か「小」をあてたためにまったく違った言葉の様に感じても元はそう差の無い(無意味な)文字だった可能性も無きにしもあらず。


まったくハッキリしていませんので、ここで大いに適当な事を記せば、私のかつていた「小田原」の地名の発祥は「田圃と原野」の地という意の「田原」に接頭語「お」をつけて口承していたものをどこかで誰かが聞いた通り文字にした際、たまたま「小」という字を使用、当初は「おたはら」という読みだったものを漢字が出現して「おだわら」と濁るようになり今に至ったのではないかというのが私の考え。

結論として地名・人名で「大・小」を「お」と読む場合、「本来意味なし」であるというもの・・・。


ということで、今の「大阪」の地名について。17日は私には「どうでもいいこと」と言ったら少々失礼ですが、大阪の住民にとっては例の騒がしい件、決着がつくようです。やはりどうでもいいことでした。


勿論この大阪の「阪」は元々「坂」の字が使用されていたことは周知のこと。明治以前のお話ですね。私は「坂」の方がピンときますし、ワープロでは「大坂」の方を多用しますので、つい最初の変換は「坂」になってしまうほどです。・・・逆に今「京坂神」などと書くと違和感がありますが・・・。


さて、大坂の地は当流の八代、の蓮如上人が開いた石山本願寺が大元です。

また、御文の中に出てくる「大坂」という語が史上「大坂」の初見であるとも。「四帖―十五」(サブタイトル「大坂建立」)画像は冒頭部分ですね。


「そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ~」


「東成郡生玉の庄内大坂」は[ひがしなりこおり いくたま しょうない おおざか]と「さか→ざか」と濁っていたようです。また蓮如さんの十男の記述に当時の大坂のド田舎振りを現す言葉として

「摂津国東成郡生玉庄内大坂御坊ハ、明応第五秋九月廿四日ニ御覧始ラレテ虎狼ノスミカ也。家ノ一モナク畠ハカリナシリ所也」と、現在とは「大」違いです。


その石山本願寺(その後の大坂城)が建立された場所が上町台地。その先端が四天王寺でした。この辺りの地理的感覚は左側ナビゲーション、司馬遼太郎の日想感も参照してください。


この四天王寺周辺には「天王寺七坂」という坂があります。

台地といってもそう高さを感じないなだらかなものでそれらに向かう道のことですね。それらはこの地の発祥の地の「名物」であり、その特徴ある形状というか段差である「坂」を地名としたということです。「坂」に接頭語「お」を付けて「おざか」ですね。


また、その七つの坂のうちで現在の国道25線にあたる逢坂(おうさか)という坂が「おざか」発祥とも言われています(場所はここ)。


解説板を転記すれば

「逢坂 天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ケ辻から東へ上がって四天王寺西門に至る坂である。逢坂は、逢坂の関になぞらえてよんだものとも、聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた『合法四会』に近いことにより合坂と名付けられたとの諸説」とあります。

やはり確定的な事は不詳なのでした。

いづれこの坂と段差の地形、上町台地はNHKのあの番組でピックアップされることでしょう。


ちなみに長野善光寺の如来様の伝承ですが、一説に物部守屋(仏教反対)の父)物部尾輿が仏像を難波の堀にブン投げて捨てたものを後世本田善光が掘り出したといいます。また守屋は聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子によって滅ぼされています。