仮説の独り歩き・・・まるで事実の如く・・・・

独自検証による仮説、推測というもの、案外勝手に独り歩きして広く伝播したりすると「史実」になってしまう・・・。

このことは先日、教育委員会の方から聞いた話。

学者と違う地元の歴史研究家と多くの関わりを持つあの部署としてはその人たちにありがちな「推測」が「史実」として大手を振って歩く姿をよく見かけるそうで、その「火消し」の方もケアしなくてはならないそうです。


そういえばこのブログでも「推測」ばかり記しているような気がします。

そもそも歴史など過ぎ去った時間に繰り広げられた事象ですので、それとは生きている時間の違うこの時代の人たちからすれば、皆さん自身で体験したことではなく、書籍資料で知ったことばかりですね。


当たり前ですが、歴史好きは往々にしてその推測について、結構断定的な語尾で語るという傾向があって、類推の域さえ確定的に締めるそうで、結構ハラハラさせられることが多いそうですね。

私もその「語尾」には気を付けなくてはなりません。

それに早口も・・・


さて、私がやはり日頃感ずる、「そんなこと断定的にいうなよ」と思っていることは、「葬儀」に関わる変てこな習わしですね。

新人らしき担当者がさも何百年も前からやっていて、コレを外せば「下手すりゃ祟るかも」風の論には、ほくそ笑んでしまいます。まぁ苦笑いの類ですが、面倒くさいのでもう放ったらかしですね。


この手の話は以前からブログで記していますが、枚挙にいとまが無いという感じ。親鸞さんからの真宗正信の感覚からすれば、かなり逸脱しているのですが、何と世には「雑念」(迷信と根拠レスのならわし)が多いのでしょう。


世にはその「雑念」をベースにした「商売」(霊感商法・インチキ宗教)が成り立っていて、時としてその手のグループが検挙されてはいますが、人は皆、一様に騙されやすいということがわかります。


皆が皆、一切皆苦と生老病死、そして無常迅速の意するところを少しだけでも心に置いていただければ、そんなつまらない人生の「他人の作った負の寄り道」に時間を費やす必要は無いのですが・・・。


どこかでも記しましたが、私は時間のゆるす限り、収骨に立ち会います。

担当者が遺骨をつまむ箸の説明をしますが、この儀式、仏教とは関係ありませんね。特にこの箸について「対の素材の違い」について縁者からの質問があった時は、担当の方は「わかりません」と言っていました。


別に意味の無いことですからわからなくて当然ですが、本来の意味としては

「急にこんなことになっちゃって悲しくて慌ててしまった。準備もしてなくてありあわせの箸を用意したらこうなっちゃった」ということを演出するものですね。

要は亡き人をポーズで騙す伝承です。


伝承とは「こういうモノを使うのが正しい」ということを引き継いで「そういうこと」としたのでしょうが、この亡き人を騙すというのは、火葬場から故人が付いてこないように帰り道を来た道と変えるとか、故人の使っていた茶碗を割るとかいう「絶縁」宣言の一種でしょうね。

亡き人をケガレやマイナスなものとする考えで仏教とは全然関係ないことをあそこいらでは皆さんやらされているのですね。

それもかなり神妙、真顔で・・・。仏教的感覚からすれば、仏からしてすべてお見通し、姑息なダマシの偽計にのるものですか・・・


面白いのは箸を他者と持ち合って骨壺に収骨するその「作業」ですが、箸だけに「橋渡し」などと言うそうです。都合のいいことを言うものですね。

よくいう「橋渡し」とは坊さんの使命であるといいますね。「世渡り上手の坊さんはダメ!」との源信さんの母上の歌を思い出します。


まぁ色んな場所に顔出して、時として煙たがられています。

歳とっていよいよ偏屈になっている自分を感じますが・・・


①昨日ミツバツツジが1輪開花しました。

近江布施城や石塔寺に咲き乱れるそれを見て、昨年植えた2株のうちの一つです。地球は確実に前へ進んでいます。

②あまりに温かくなったので―ただし本堂は相変わらず寒い―特別に可愛がっているハイビスカス黄色系を表に出しました。他の連中は葉を落している中、これらは蕾まで持っています。

降雨の予報につき夕方は屋内へ


③④境内での「橋渡し」。「溝が怖くて親鸞さんにお参りが出来ない」というご指摘があったのは昨年秋。どうしようか思案していましたが、最近になって須々木の酒井さんに相談したところ、境内に放り投げてあったグレーチングを加工溶接していただき橋の完成。依頼後瞬時の納品とボランティア作業、ありがとうございました。その指摘をされた方から、感激の御礼をいただきました。

当初、私はこのくらいの間隔なら大丈夫と長年放置していましたが、やはりそれは「健常者」の見識でした。大いに反省した次第です。

自分の「当たり前」が人様から見て「ちょっと待って・・・」ということはよくあることを再認識しました。