新野の佐栗山トンネルの山 広大な釜原城

御前崎市「新野」は最近の市町村合併でそう呼ばれるようになりましたが、以前は「御前崎」のイメージはまったく無かった場所です。

町で言えば小笠と浜岡の間で佐栗山がその間を隔てていましたがその浜岡ももともと「小笠郡浜岡町」でした。

小笠郡という郡部は既に消滅していますが合併は旧郡のこだわり(歴史)というものを捨てたものだったのでした。かつては「相給」という他と分け合う形ではあったものの新野は相良藩領でいわゆる「相良」でしたから。

 

オット」はその佐栗谷の山を貫通させたトンネルでしたがその勾配ですら、そのパワーレスで立ち往生したとのこと。 

ジーゼル機関廃止の後、長きに渡って佐栗山越えの道にて小笠菊川方面と池新田が結ばれていましたが、昭和42年に悲願のトンネルが開通、バス通りとなって新野はその経由地となったのでした。そののち新野部落をパスするバイパス(切通し)が完成したというわけですね。

 

そのオットのトンネルの山には「釡原(かまっぱら)城」がありました。新野はかつての小笠郡、その前の城東郡、そしてそれ以前の城飼郡という名に負けず、「城」が各所に造られました。

 

新野村の件は以前ブログにて新野左馬之助(親矩) 画像① のところで記しましたようにそのエリアは意外に広大です。

牧之原台地からその西側の谷、そして平地にかけて広がりますが、現在確認されている複数の城は新野平地の部落を北西から北東にかけて囲い込むように点在しています。

 

それぞれ築城時代も前後しているようで、その主体と目的も違うのかと思います。一時代にそれらの城たちが機能していたというのは少々早とちりですね。

 

これらの城について史料的に記されているものは僅かで確定的な証拠もなくその殆どが推測の域を出ていません。

 

その領地支配者の城館の推測例を挙げれば

 1 鎌倉期御家人系地頭職

 2 斯波系在京守護代に派遣された郡代系土豪

 3 上記を一掃して新規に入植した今川系領主

 4 上記を一掃して城を改変しつつ入った武田系城代

  (4は高天神城支援の城として)

です。

 

何せ資料が少ないということが「戦国のお城ブーム」というものがあったとして、こちら新野の城たちが今一つ、前面にそれらを押し頂いて宣伝に力を入れられないところなのでした。

 

しかしながら、新野の歴史に埋もれたこれらの城たちは決して

バカになどできないほど大した威容を誇っています。

きっとこれからの見直しはあるはずです。いずれ日の目を見ることもありましょう。何よりも遺構が比較的良く残存し、それぞれが広大で整備と紹介さえあればより満足度が高いものとなりましょう。

 

惜しいのは、殆ど無整備、放ったらかしであるということですね。

特に広大で武田風の遺構が残り、武田方(勝頼でしょう)が手を加えたということを十分推測して説明ができる(まだブログにて記していません)「八幡平城」などは地元ハイキングコースに指定されています。

案内板を各所に設けるなど少々の管理努力は見えますが、他の城については、まぁ一言で言って「荒れ放題の感」があります。

折角の遺構が勿体無いですね。

 

特に酷いのがこちら釡原城(場所はここ)です。

こちらは後世になって茶畑に開削されたうえ、最近になって耕作放棄、放置してそのままにして茶ノ木がボサボサになり、伐採したあとは、陽当たりの良さから笹竹の藪が出来上がってしまったという状況がうかがえます。

むしろ広葉樹の森であれば意外に遺構は残って目視できるものなので、一旦人が手を加えると台無しになってしまいますね。

 

現場にある故鈴木東洋氏の絵図面に沿って記しますと、西の端④の「佛念」なる古字の名は浄土系(時宗系)をつい思い浮かべてしまいますので城の発祥として横地・勝間田と同様に斯波系を・・・断定するのは尚早でしょうか。

④図から見上げたドコモの鉄塔を目印にしますが、現在はこちらの工作物による削平で何があったのかはわかりません。惜しいことではありますね。地権者サイドとの契約ですから、文化財の意識が町にあればこんなことにはならなかったでしょう。

 

廃城後に寺院が出来、また廃寺になった聖道寺跡がありますが⑤⑥、こちらからも冬場なら登城チャレンジは可能です。

⑦の尾根から繋がる土塁らしき現民家の外塀に張り付いて上って行けばOKです。


現在新しくできた切通し、バイパス側に突き出た尾根先端の下、廃寺境内あとからその張り出しは見えますが、その尾根にも出丸・物見櫓等の設置が推測でき堀切らしき遺構が見受けられます。⑳はその先端部からの図ですが、遠方に浜岡原発が見えます。刈り取られて露出した山肌は茶農家が廃業したあと今のところ草刈等の管理ができている様子です。

手が回らなくなれば僅かな時間で笹竹の藪と化します。

 

②③図を見てもわかりますが、大尾根からは各方向に小尾根が出っ張り多くの「谷」を形成して攻め手は左右からの横矢と投石を受ける事になります。


地図上に「墓地」と記した場所は山田ケ谷に突き出た先端です。⑨馬頭観音⑩六地蔵塔婆型板碑⑪五輪塔・宝篋印塔残欠が見られます。⑫の五輪塔は近隣住居地に祀られているもの。古くからこの地に続く家で代々伝わっているとのこと。

 

登城の正攻法はやはり新野バス停からどうぞ。⑭以降。

⑮の谷沿いにドコモの基地に向かう道があります。⑰は基地脇の道で左側にはポサ伸びになった茶の木が哀れを誘います。

ここを左方面に行けば前述の南に向かう尾根に続きますがこの北へ向かう先がこの城の醍醐味。

 

この笹の藪の中には土塁、堀切等を推測できる遺構が見受けられますが、例によって画像をアップしても殆ど同様の図になりますので省略です。


ポイントは

1    冬場に行くこと

2  藪に行く手を遮られますがめげずに遮二無二進むこと

 

塔を過ぎて笹竹の藪に出ますが左側から北方向にずっと尾根伝いに城址は確認できますし、右側に回れば東側への尾根に向かうことができます。北へ伸びる尾根を進むと再び笹竹の密集地にあたりますが、ここが北の曲輪で街道を見渡すことができます⑱。尾根伝いに自然の段丘を利して削平し大小の曲輪を構築した連郭式の城です。


この笹薮を払って発掘調査すれば何か出てくるかも。

茶畑があったとしても諏訪原城薬医門の例がありますから、期待はできるでしょう。

藪を右側手前から東側へ向かえばさらに尾根伝いに小曲輪らしき跡が確認できます。

 

いずれにしろ誰の城だったのかはわかりません。「佛念」の示唆からいえば今川義忠や、応仁の乱以前の守護職斯波氏の息がかかった者の城が最初で以降、南北を結ぶ街道を監視する領主が代わる代わるこの城を改めながら相続していったということでしょうか。

勿論前述新野左馬之助の街道前衛の付城として機能していたことも間違いないでしょうし、武田侵攻時は武田の将が入ったことでしょう。

いずれにせよ激しい戦闘や主戦場とはならなかったことから歴史の表立ったところには出てこなかったようです。