春の陽気に誘われて 掛川水垂の城山 真昌寺

掛川の中心街より北方に「水垂(みずたり)」という地名があります。今は畑と造成、一部工業団地と化していますね。

色々な解釈ができますが、五月雨―さみだれの語源―みたれ―から来ていそうですし、こちらは高台ですから「水はけの良さ」を強調したかもしれませんね。

近隣に「垂木」という地名が広範囲にあります。こじつければ「垂木」は日本家屋の雨水を流すための屋根の傾斜をつくるベースとなる材のことでしょうから、やはり「水はけがいい」か「水の流れが速い」という高低差でいう「高い場所」という意味かも知れません。

 

「五月雨を 集めてはやし 最上川 ~芭蕉」と言いますが梅雨の長雨で近くの河川は周囲の丘からの雨水が集合して増水、治水工事が行き届かない古の時は、生活の中、水害との戦いはどうしても切っても切り離せない課題だったろうと思います。

 

河川を防衛の要として利した城塞について記していますが(最近ではこちら)この地の古い呼び名で「城山」と呼ばれている場所がこちら真昌寺です。

近くには初馬川が流れ、たくさんの溜池があります。

 

日本全国「城山」という地名が現住所、旧地名それぞれあって、なんらかの「城塞」に関わらない場所というところ、私は知りません。

災害のあった場所を後世の記憶にとどめるために銘々した地名(大崩海岸・・・)についても以前記しましたが、人々の記憶、郷土に伝わる地名は興味深いモノがありますね。

 

 

そもそもこちらのお寺には「山内一豊の御持仏」と言われる「水垂高森聖観音」が鎮座しているというので一度参拝をと思っていました。これはまったくの興味本位で伺いましたが御開帳はされていませんでした。

 

この城の城館跡といわれる真昌寺①(場所はこちら)の背後にある山、東へ伸びる尾根と南に伸びる尾根を「折角だから・・・」と取り付こうと思いましたが、登攀路が見つかりません。

寺の庫裏や西側の住居地裏からは上れそうですが、これには許可が必要となりますので、大きく南側の別の丘陵との切通し側に公園造作された地が見えましたのでグルっと廻りこみました。

 

その公園からも進入路は見当たらず、時節柄大した難儀は無いことは分かっていますので上り易そうな場所、開墾によって堀切の片方を切り落としたかも・・・と思える、小規模な段差の確認できる上部から「えい、やあの掛け声」とともに竹藪へ突入しました。

こちらよりお寺の背後に上って行きますが、一応段状に造作された曲輪らしき削平地があります。ホントにコレ遺構?とも思えて、少々ガッカリ感。お寺の庫裏上部から大きく下がってから東へ伸びる尾根の上部が本曲輪のようですが、こちらからは断念。

 

公園下まで戻って切通しから進んで最西端から再チャレンジ。

竹藪の中の遺構らしきものといえば段状の工作されたものらしき形状のもの、それを見て帰ってきました。

東西の頂上部をパスしてきたので、「その本質」を見なかったような気がしますが、もともとオマケで来た城でしたので「そんなものでしょう」といったところでしょうか。

 

しかし感動は2つ3つありましたよ。

⑩⑪は上記切通しの東に出た場所の南側。「古(いにしえ)」を彷彿とさせる文言を見つけました。

「殿道」です。

その「殿道の桃の里」がこちらの切通し南側の斜面で、きっと直に桃の花が咲き乱れることでしょう。東の遥かに目をやれば粟ケ岳が望めました。

 

そしてなにより春の報せですね⑫⑬⑭⑮