「わからない人にはわからない」のでや~めた

世の子供たちに、言って聞かせても、聞かないフリなのか、わからないのか、てんでの無視なのか、これまた何なのかわかりませんが「わからない人」は多くなっているということはわかるような気がします。家康も子育てについて語っていました。

 

痴呆の入りつつある叔母はまったく「わからんちん」になってしまって日に数度(昨日は5回)の電話での同じ心配事の吐露には閉口させられますが、これも自分の姿?と思えばますます寂しくなってしまいます。

 

仏教で「わかる」は「悟る」であり「覚る」であってそれは仏の「智慧」に耳を向ける(「聞く」)ことですね。そして「我が身のお粗末」に気が付くことができれば「目出度し」です。

 

真宗的に言えば「正覚大音 響流十方」という法蔵菩薩の働きを「受ける」のが「わかる」「ハッキリ」=「安心」ということ。

阿弥陀さんが「大音」で発しているのだから私たちは謙虚にそれを耳することが大切であり、万が一にもその働きについて「知らなかった」では済まされないというのが「他力」の本願なのです。

 

要は私たちレベルの人間の「言って聞かせる」というスタンスは自力修善であり、「正覚」(ただしきさとり)を口上する方は仏のみなのです。

ということで、標記「わからない人にはわからない」という発言は要するに仏にのみ許された達観。まぁホントの仏なら「絶対にわからせる、聞いてもらう」という使命に燃えて、私たち凡夫を導くでしょう。

 

昨夕、そわそわ忙しい時間でしたがテレビで遭遇したあの爆笑コメントには「ニヤリ」としてしまいました。

まさに凄いですねぇ。政治屋とはあの様(ザマ)なのでしょう。


国は各業界の支援団体に補助金を出しますが、あの西川というオッサンは地元の材木屋さんと砂糖業界への支援決定後に自身が寄付を受けているということを周囲から「オカシイ!」と指摘されていました。それでその「捨て台詞」。今年の「流行語大賞候補」1号でしょう。

 

ド素人の私でさえ、やはりアレはおかしいと思います。

国民の税金が支援決定した団体へ「補助金」という形で廻り、あとからその団体からの寄進を受けるというのはどう考えても、「資金還流」「迂回」「成功報酬」にしか見えませんね。

政治資金規正法に対して「違法性が無い」との御仁の主張がまかり通るというのは、いやはや「砂糖だけに甘かった」というオチでしかないですね。「しょうがねぇなぁ」と苦笑い。それで済ますのもまた同じ。

 

つまらないオチで恐縮至極。画像①②は私には「到底わかりえない」某友人宅台所の様子。爆買いの図。

「レトルトカレーとツナ缶は日々欠かせない」、彼もその業界にとっては奇特な方でございます。あの地震のあと、食べ物に困った彼人宅ではこの程度の食材を常時備えていないと気が済まないそうです。

 

春一番の吹いた翌日は静岡は本州で最初の20℃アップ。

暖かくて朝は布団を引っ剥がしました。お勤めも殆どペラペラの法衣ですが汗が出るほどです。

このすごしやすさ「待ってました」ですね。

③画像は境内で一番最後に咲く、枝垂れの梅。