当地で「武衛」といったら横地城 再訪

京都室町通り、「武衛陣町」は武衛の屋敷址(画像⑤)、そちらに信長が二条城を建て現在の二条城の前身となりました(昨日のブログ)。

あの松永弾正による将軍殺しの場もこちらだったようです。

 

「武衛」とは律令時代の官職「つわもののとねりのつかさ」=兵衛府の唐名です。

この「兵衛府」の官職を模した、「〇兵衛」さんの名前は、ひと昔前の「男の子のベストネーム」になるほど持て囃されたものです。〇の部分にオリジナルの字を入れられるのでバリエーションも豊富でした。過去帳にはオンパレードですが、現代はさすがに見えなくなりました。

 

旧二条城の方は「陣」がついていますので彼らの詰めていた場所がそちらだったということですね。

唐名は律令期からの慣例で、多様な公職にそれらが付されています。室町期など独占的にその官職を家が世襲したために、たとえば後に「三管領」と呼ばれた将軍家の「庶子」系の斯波家が武衛家、細川家が京兆家、畠山家が金吾家とその唐名を「代名詞」の如く呼ばれていました。

 

元々斯波家は将軍家と同等格でした。関東御家人時代は「足利」を名のっていた家柄で本流同格で、他の庶子とは一線を隔すほどの家です。代々将軍家と同じ「義」の一字の使用を許されています。


いつかブログにて室町後期の守護大名として「その家」の在り方が戦国大名と戦国時代を演出するきっかけを作ってしまった、ようなことを記しましたが、家として「格上」であったために斯波家惣領は京都―中央にあり(政治的手腕を全国的に振るわなければならないという立場上の理由)地方の領地への気配りが疎かになってしまったという結果です。まあ領地は全国に散らばり、その一地方のド田舎に下向する(=ほとんど都落ち)事などは気持ち的にも有り得なかったことでしょう。

 

もっとも中央にあって何をしていたかといえば、他の管領家や足利家庶子系から頭角を現した諸家、あるいは一族内部の権力抗争に奔走していたわけで、そのことが結果的に応仁の乱という下剋上の風潮の土台を作ってしまったわけです。

 

斯波家は三管領の中でも筆頭。その領地たるや広大で守護職として越前・尾張・遠江の三国を治めていました。

惣領が京都に居つづけてデスクワーク、地方の統治は自分の名代として下向させた「守護代」にまかせっきりになります。

 

当時の風潮は惣領家内部で一族主導権の奪い合いが続き、その庶子、家臣団内部でも同様の状態でした。

守護代で地方統治に遣わせた家にも内紛が勃発して覇権の奪い合いになったり、在地御家人あがりの国人層実力家との紛争もあり地方は上下関係や義理よりも、日和見的な強権主義となって、日本中が乱れる要因を作ってしまったということですね。

 

さて、「武衛」=「斯波氏」は室町期日本史の常識ですが、この御所近隣の旧二条城に立つ石標の「武衛」がこの目で実際に見られる場所といえば横地城ですね(2012.5.21 22)。

 

こちらの看板にある名が斯波義廉(よしかど)。

本来の斯波家惣領を将軍義政が廃嫡して渋川家から斯波氏に送り込まれた人でした(血縁的にまったくの無関係ではありませんが)。

勿論渋川家も足利家内、筆頭クラスの名門庶子で元は関東(群馬渋川)発祥です。足利幕府二代義詮の正室は渋川家から迎えています。ちなみに当家は九州探題世襲家で領地は摂津・肥前・豊前・備前・備中・安芸等で複数の国持ち名門勢力家。

 

しかし義廉は関東(鎌倉~義政義兄の政知―堀越公方の失敗)出兵のため渋川の名を利用されただけのようでしたね。

一旦斯波家から廃嫡をされた斯波義敏が許されて掌を返すように幕府からは義廉追捕令まで出され、彼は歴史から消え去っています。

 

京都にて自らの立場も危うい時期に斯波義廉が果たしてこの遠州の地を実際に踏んでいたかどうかはわかりません。

この広い横地城域の中のちっぽけな一画に初期戦国時代というか特に「室町的」な歴史の深さというものに触れられるということは感慨深いものがあります。

土塁状の囲いにも見える境界があってその区画は特別の感覚。何故か茶畑となっていません。発掘調査に興味が湧くところですね。