自己責任論と「業縁」の為せる業

「遠くて近い」はあくまでも感覚的なもの。

ある事象を理解するうえで観察するに、より近い場所からの視覚はまったく違う捉え方がされるのは当然でしょうね。深層を突き詰めるに距離の存在は致命的です。

後藤健二氏の如く現場にあることが、いかに大切なことか。

何事にも捉われない目を通した真実の情報の発信や、どこか支援を遂行するにしろ生のその地を把握をする必要があるというものです。遠いところにいては真実は伝わってきません。

 

昨日の天声人語にあるイランの映画監督の一言が掲載されていました。

「(彼らは)遠くから見れば危険なイスラム原理主義だが、近くで個々を見れば飢えた孤児である」

 

月曜の午前中の法事のあとはテレビを前にお茶の間評論家。

あの事件の中で戦慄の殺人者は「日本国内でテロを起こす」と警告していました。

とある奥さま相手の番組の司会者が「外部からの国内進入はシャットアウトできそうだし、日本国民にそのような人(過激分子)はいるはずがないのでは・・・」とゲストに投げかけていました。日本人の中にそんな不届き者は「皆無であろう」という意です。どういう趣旨であったのかわかりませんがそのように言っていましたが私は首を傾げるばかりです。

 

そして昨日は7年前に、殺人予告をしたうえに秋葉原でやらかした大事件の最高裁判決が確定したというニュースがありました。

先日も若者がメディアを通じて「自己主張」し、仮想の窃盗やら営業妨害を演出して騒ぎを起こしたり、「むしゃくしゃして」等の理由での通り魔事件の発生などピックアップすれば枚挙にいとまがありません。最近は「人を殺してみたかった」などいうまったく理解不能の三文芝居の台詞の如く文言も飛び交っています。

 

それらも十二分に過激でかつ暴虐な行為であり、歴とした反社会、いわゆるテロリズムですね。一見理解不能の跳ね返りの一匹狼のようですが、要は彼らは「孤独」なのです。

まさに身寄りのない「孤児」なのです(名目的家族はあっても)。

また一人一人は決して大きく威勢を張るような人間では無く、(「しょぼくてさえない」ちっぽけな人間さと被害の甚大さの不条理・・・秋葉原の事件についての評論家)「普通」というよりもそんな大それたことをやらかしそうな人間には見えないことが共通点。

問題はそんな彼らがより過激となって彼らの鬱積した怒り(それは一方的な勝手な感情ではありますが)は、より、イスラム原理主義者へ迎合することもあるでしょうし、矛先が同一方向へ修練していった場合、かなり脅威的になることは間違いないと思います。

 

そもそも「ある業縁」によっては何かをしでかさないではいられない我が身であることは違いないところですし、上記映画監督の言葉を借りれば「飢えた孤児」たちが増殖している社会であると思えるフシがあるからです。

そのような敗北感(負け組・・・)を身を持って感じている子供たちが多くいることがそれにつながるのですが、今なお残る戦争・紛争もその増加に拍車をかけています。

それが今、流行りの経済学の書「21世紀の資本論」の言う、「格差社会」の結実(弊害)ですね。

 

その説には各異論がある様で、また私自身がその勝ち負けを論じるテーブルの上に登場するわけでもなく、譬え資本欠乏の「負け組」にあろうとも「どうでもイイ事」(仏教の教え、有無同然、盛者必衰・・・)ですので敢えてその本を購入してお勉強をする気にはさらさらなりません。

しかし、社会の大多数が貧困層であって資本の大部分は一つまみの富裕層が握っているという現実とさらにそれが拡大するであろう社会は、「不満分子」醸造の土壌となるということは合点がいくところです。

 

若者の貧困層拡大についてはどこかで記しましたが、私たち中間層と言われるフツーの階層?の者も、「貧困=自業自得」という常識の如くの自分本位の自己責任論は修正しなくてはなりません。

その本質を知り、問題意識して掲げて日本人の本来の思いやりというものをいよいよ発揮しなくてはならないでしょう。

 

反省なく、そのままこの流れを見過ごして漫然と過ごせばいずれ、何かあった時、それこそが「日本人全体の自己責任」であると揶揄されることになりましょう。


①は日本が世界でベスト4となった「相対的貧困率」

(ある国や地域社会の平均的な生活水準と比較して、所得が著しく低い人たちの全人口に占める比率)

反社会活動に陥りやすい警戒水域に入っているともいえます。

②は一日1.25ドル以下で生活する人口の割合(国連2000-2007年集計) 政情が不安定な地域とリンクしていますね。世界では「日本人は富豪である」は常識。特に赤系の国においては常にターゲットになりやすいということを心掛ける必要があります。